モンテニュー 抜粋
 
              (関根秀雄、荒木昭太郎訳利用、一部佐々木敏光改訳)

 先頃わたしが、できるだけ他のことにはかかわらず、ただわたしに残されたこの僅かな歳月を独りで
静かに送ろうと堅く決心して、この家に引込んだ。
                          (モンテーニュ『エセー』Tー8)


 私もできれば物事のもっとも完全な知識を得たいとは思うが、あんなに高い代価を払ってまで
買いたいとは思わない。私の意図は、余生を楽しく暮らすことで、苦労して暮らすことではな
い。頭を悩まそうと思うほどのものは何もない。学問だってどんなに価値があるにしても、やは
り同じことである。私が書物に求めるのは、そこから正しい娯楽によって快楽を得たいというだ
けである。勉強するのも、そこに私自身の認識を扱う学問、よく死によく生きることを教える学
問を求めるからに他ならない。           (モンテーニュ『エセー』IIー10)

 もしも誰一人私を読む者がないとしても、私がこんなに多くの暇な時間を、こんなに有益な愉快
な思索にまぎらしたことが、はたして時間の空費というべきなのだろうか。私は、私に型どってこ
の像を作ってゆく間に、私の本当の姿をとりだすために、何度も自分を整え、身構えねばならなか
った。そのために、原型のほうがだんだんと固まって、ひとりでにいくらか形が定まってきた。他
人のために自分を描きながら、私は初めの頃の自分よりもはっきりした色彩を帯びてきた自分を描
いた。私が私の書物を作ったというよりも、むしろ書物が私を作ったのだ。 
  (モンテーニュ『エセー』II−18)

われわれはたいへんな愚か者である。だから「あの男は一生を無駄にすごした」とか「私は今日
は何もしなかった」とかいうのである。――なにをいうのだ。君は生きたではないか。それが君の
仕事のなかで根本の仕事であるばかりか、いちばん輝かしい仕事なのだ。
(中略)
われわれの偉大な名誉ある傑作は自分にふさわしく生きることである。ほかのいっさいのことは、
国をおさめることも、財を成すことも、建造することも、せいぜいその小さな付属物であり、添え
物に過ぎないのだ。                 (モンテーニュ『エセー』Vー13)

 われわれは自然の作物の美しさと豊かさの上に、あまりにも多くの作為を加えすぎて、これをす
っかり窒息させてしまったのだ。けれども自然はその純粋さの輝くいたるところで、われわれのは
かなくつまらない試みに赤恥をかかせている。        
(モンテーニュ『エセー』I−31)

 自分の資質、性格にあまり固執してはならない。われわれの第一の才能はさまざまな習慣に順応
できるということである。やむをえずたった一つの生き方にへばりつき、しばられているのは、息
をしているというだけで、生きるということではない。もっとも美しい精神とは、もっとも多くの
多様性と柔軟性をもった精神である。

 運命は我々を幸福にも不幸にもしない。ただその材料と種子とを我々に提供するだけである。そ
れらを、それらよりも強力な我々の心が、自分のすきなように、こねかえすのである。これが我々
の心の状態を幸福にしたり不幸にしたりする・唯一の・おもな・原因なのである。     
                        (モンテーニュ『エセー』Iー14)

 わたしは人間だ、人間のことで、何ひとつわたしに無関係なものはない。
     (テレンチウス −− モンテーニュの塔の書斎の天井の梁に刻まれた文)

 人間は実に狂っている。虫けら一匹造れもしないくせに、神々を何ダースとでっち上げる。
                         (モンテーニュ『エセー』IIー12)
                     
 われわれの職業の大部分はお芝居みたいなものだ。《世の中は全体が芝居をしている》 われわ
れは立派に自分の役割を演じなければならぬ。だがそれを仮の人物の役割として演じなければなら
ぬ。仮面や外見を実在とまちがえたり、他人の物を自分の物とまちがえたりしてはならない。われ
われは皮膚とシャツとを区別できない。顔にお白粉を塗れば十分なので、心まで塗る必要はない。  
                     (モンテーニュ『エセー』III−10)

 すぐれた記憶は弱い判断力と結びやすい。     (モンテーニュ『エセー』I−9)

 私が猫と戯れているとき、ひよっとすると猫のほうが、私を相手に遊んでいるのではないだろう
か。
                    (モンテーニュ『エセー』II−12)

 老年はわれわれの顔よりも心に多くの皺を刻む。  (モンテーニュ『エセー』III−2)

 多くの場合、教える者の権威が学ぼうとする者の邪魔をする。
  [キケロからの引用]             (モンテーニュ『エセー』I−26)

 私はそんなに深く、完全に、自分を抵当に入れることはできない。わたしの意志がわたしをある
一派に与えるときも、それは無理な拘束によってではないから、私の判断理性がそのために害され
ることはない。                   
 だが、市長とモンテーニュとは常に二つであって、截然と区別されていた。
    (モンテーニュ『エセー』III−10)

 勝ちたいという強い欲望があまりにつよく働くとき、たちまち精神と手足が無分別と無秩序にお
ちいる。われわれは自ら目がくらみ、ぎこちなくなる。
 ところが、あまり勝負にこだわらない人は、常に自分を失わない。遊戯に熱中し、のぼせること
が少なければ少ないほど、いっそう有利に確実に勝負を進めることができるのだ。
                         (モンテーニュ『エセー』III−10)

 われわれは、他人の学識によって学者になることができるとしても、すくなくとも賢明な
人間には、われわれ自身の知恵をもってしかなることができない。 
                         (モンテーニュ『エセー』I−25)
 
 自説に固執し熱中すのは、ばかの最も確かな証拠である。およそ確信があり・物に動ぜず・威張
っており・瞑想的で・荘重で・謹厳であること、ロバほどのものがまたとあろうか。
                       (モンテーニュ『エセー』III−8)

 まったく、いくら竹馬にのっても、結局は自分の脚で歩かねばならないからである。いや
世界で最も高い玉座に登っても、やっぱり自分のお尻の上に坐るだけなのである。
                         (モンテーニュ『エセー』III−13)

 人間を害する病毒は、人間が自ら知識があると思うことである。だからこそ無知はわれわ
れの宗教によって、信仰と服従にふさわしい特性として、あれほど讃えられたのである。
《この世の基礎に立って、むなしい、だましごとの哲学に欺かれないように、気をつけなさ
い。》                      (モンテーニュ『エセー』II−12)

 この考えは、「わたしは何を知っているのか」という疑問詞によって、いっそう確実に表明
される。                     (モンテーニュ『エセー』II−12)

 私は明らかに知っている。われわれがすすんで信心のために捧げるお勤めは、自分の欲情を
喜ばすためのものでしかないことを。キリスト教の敵意ぐらい激しいものはどこにもない。
     (中略)
 われわれの宗教は悪徳を根絶させるために作られたのに、かえって悪徳をはぐくみ、養い、
かき立てている。                 (モンテーニュ『エセー』II−12)
    ☆宗教改革による新・旧教徒による未曾有の内乱(宗教戦争)を背景とした文章。

 よい意図が度を越して用いられると、人間をきわめて不徳な行為におもむかせるというのは、
つねにみられるところである。いまフランスを内乱の混乱におとしいれている論争において、
もっとも善良な、もっとも健全な党派は、わが国の昔からの宗教と政治を守る党派であること
は疑いない。しかしそれを信奉する正しい人々の間にも、(中略)熱情に駆られて、理性の
埒を超え、ときとして不正な、過激な、無謀な考えに走る者もたくさんいる。
                         (モンテーニュ『エセー』II−19)
    ☆モンテーニュは旧教徒である。

 だから凡庸で、あまり緊張しない精神がかえって事を処理するのに適していて、うまく
ゆくということにもなる。高邁で精緻な哲学の理論がかえって実際には向かないのである。
あの研ぎすました鋭敏な精神と自在でよどみのない弁説は、われわれの交渉を混乱させる。
われわれは人間の企てることをもっと大ざっぱに、表面的にとりあつかわねばならぬ。
                         (モンテーニュ『エセー』II−20)

 もしも、人間からこれらの特質(病的な性質−−野心、嫉妬、羨望、復讐、迷 信、絶望
など)の前芽を取り除くならば、われわれ人間の根本的な性状をも破壊することになろう。
                         (モンテーニュ『エセー』III−1)

 正直のところ、(わたしはそう白状することを恐れないのだ。)わたしもまた必要があれ
ば、あのお婆さんが企てたように一本の蝋燭を聖ミシェルに、もう一本をその竜に、ささげ
ないとは限らない。私は正しい側には火刑台のそばまでついて行くが、しかし、できれば火
焙りだけはごめんこうむりたい。          (モンテーニュ『エセー』III−1)

 死こそは、自然の営みの継続と変遷を育成するのにきわめて有益な地位を占めているも
のだし、この宇宙においては滅亡と破壊よりもむしろ生成と増加の役に立っているものな
のだ。
  こうして万物は新しくなる。     (ルクレチウス)

  千の生命が一つの死から生まれる。  (オヴィディウス)

 一つの生命の消滅は、千のほかの生命への移行である。
                         (モンテーニュ『エセー』III−12) 
                        

  実に人間くらい驚くほど空虚で、雑多で、そして変りやすいものはない。その上に
一定不変の判断をうちたてることは容易でない。         (モンテーニュ『エセー』Iー2)


 世界は永遠の動揺にすぎない。万物はそこで絶えず動いているのだ。大地も、コーカサス
の岩山も、エジプトのピラミッドも。しかも一般の動きと自分だけの動きとをもって動いて
いるのだ。恒常だって幾分か弱々しい動きに他ならない。(モンテーニュ『エセー』III−2)

 人間はそれぞれ人間の本性を完全に身にそなえているのである。  
                         (モンテーニュ『エセー』III−2)

 何事に限らず、すんでしまった以上は、それがどのようであったにせよ、わたしはほとん
どくやまない。まったく、「それは始めからそうなるべきであった。」という考えは、わた
しを苦悩の外におくのである。           (モンテーニュ『エセー』III−2)

 もしもう一度生きなければならないならば、わたしは今まで生きて来たとおりに再び生き
るであろう。わたしは過去もくやまなければ未来も恐れない。  
                         (モンテーニュ『エセー』III−2)

 誰でもばかを言うことは免れない。困るのはそれを念入りにやられることである。
   この人は大張りきりで一大愚論を吐く。(テレンチウス) 
                         (モンテーニュ『エセー』III−1)

 我々は誰でも我々が考えるよりも豊かである。それだのに人は借りること・求めること・
ばかり我々に教える。自分のものよりも他人のものを使用するように我々を仕込む。
                         (モンテーニュ『エセー』III−12)

 私は自分の尺度で他人を判断するという万人に共通の誤りを全然もち合わせない。私は、
他人の中にある自分と違うものを容易に信用する。自分もある一つの生き方に縛られている
と思うけれども、皆のように、それを他人に押しつけることはしない。そして、たくさんの
相反する生き方があることを信じ、理解している。また、一般の人々とは反対に、お互いの
間にある類似より差異の方を容易に受け入れる。私はできるだけ、他人を私の生き方や主義
を共にすることから解放し、単に彼自身として、他とは関係なしに、彼自身の規範従って考
察する。                     (モンテーニュ『エセー』I−37)

 私はあらゆる人々を私の同胞だと思っている。そしてポーランド人もフランス人と同じよ
うに抱擁し、国民としての結びつきを人間としての普遍的な共通な結びつきよりも下位に
置く。                      (モンテーニュ『エセー』III−9)

 民衆の狂気は、各国民が隣国の神を憎み、自分の崇める神だけを神と思い込むことから生
じる。                      (モンテーニュ『エセー』II−12)

 さて、話を元に戻すと、新大陸の国民について私が聞いたところによると、そこには野蛮
なものは何もないように思う。もっとも、誰でも自分の習慣にないものを野蛮(barbarie)
と呼ぶなら話は別である。まったく、われわれは自分たちが住んでいる国の考え方や習慣の
実例と観念以外には真理と尺度をもっていないように思われる。だがあの新大陸にもやはり
完全な宗教と完全な政治があるし、あらゆるものについての十全な習慣がある。彼らは野生
(sauvage)である。われわれは自然がひとりでに、その自然な推移に中に生み出す成果を
野生と呼ぶのと同じ意味において野生である。[中略] われわれは自然の作物の美しさと豊かさ
の上に、あまり多くの作為を加えすぎて、これをすっかり窒息させてしまったのだ。けれど
自然はその純粋さの輝くいたるところで、われわれのはかなくつまらない試みに赤恥をかか
せている。                    (モンテーニュ『エセー』I−31)
 
 いったいどこの蛮族か知らないが(ギリシア人は外国人をすべて蛮族と呼んでいた)、こ
の軍隊の隊形はけっして蛮族のものではない。[中略] だから、われわ れは俗説にとらわれな
いように用心しなければならない。一般大衆の声で判断してはならない。
                         (モンテーニュ『エセー』I−31)

 将来、果たして何か別な発見がなされないと断言できるものかどうか判らない。今度の場
合(=アメリカ大陸発見)にも、あんなに多くの我々よりえらい方々が、見当ちがいをさっ
たのだから。                   (モンテーニュ『エセー』I−31)

 実に奇怪な戦争だ。他の戦争は外に向ってなされるが、この戦争は自分自身に向ってなさ
れ、自分をむしばみ、自分の毒で自分を破壊している。
(モンテーニュ『エセー』III−12)

 こんなに熱心に、そして何事においても、あの古代の《最良の中庸》を賛美し、中庸の程
度をもっとも完全な程度と考えたこの私が、どうして並みはずれた、法外な老齢を望んだり
しよう。自然の流れに逆らうものはすべて不快かも知れないが、自然に従うものはすべて快
適なはずだ。《自然に従って起こるものはすべて 善の中に数えられるべきだ。(キケロ)》                             
                         (モンテーニュ『エセー』III−13)

 私は、わが国においても前には死刑になった事柄が今では合法とされるのを見た。また、
別の思想をいだいているわれわれにしても、戦乱の運命の定めないことを思えば、いつかは
人および神に対する大逆罪に問われないとも限らない。(モンテーニュ『エセー』II−12)

 昨日はもてはやされていたのに明日はそうでなくなるような善とはいったい何であろうか。
河一つ越しただけで罪にとなるような善とは何であろうか。
 山のこちら側では真理で、向う側では虚偽であるような真理とは何であろうか。
                         (モンテーニュ『エセー』II−12)

 われわれの欲望は、手中にあるものを軽蔑し、それを飛び越えて、もっていないものを追い
求める。
 彼は手中にあるものをさげすみ、逃げるものを追いかける。(ホラティウス)
われわれに何かを禁ずることは、それに対する欲望を起こさせる。 
                         (モンテーニュ『エセー』IIー15)

 危険にあうと、私はどうしてそれを免れようかと考えるよりも、むしろそれを免れることが
いかにとるに足らぬことであるかということを考える。(モンテーニュ『エセー』IIー17)

 自分をもって他人を判断するという、だれにもありがちな、まちがった考えを私はもたな
い。[中略]その人その人自身として、その人固有の流儀にしたがって、単純に、他から切り
はなして、私は考える。              (モンテーニュ『エセー』Iー37)

 私はあらゆる意味で自分の主人公でありたい。   (モンテーニュ『エセー』IIIー5)

 真の自由とは自分の上にどんなことでも成しうることである。《最も力ある人とは自己の主人と
なることである》(セネカ)              (モンテーニュ『エセー』IIIー12)

 その一生のあいだのただの一瞬も、しっかりと立ち、安定している魂は、千のうちひとつもあ
りはしない。                   (モンテーニュ『エセー』IIー12)

 どれほど多くの人間が想像の力だけで、病気になったことだろう。 
                         (モンテーニュ『エセー』IIー12)

 わたしは人間が、もし正直に語るならば、わたしに向ってこう告白するであろうと信ずる。
「自分があんなに長い間の探究から得た獲物といえば、自分の弱さを認識することを学んだと
いうことに尽きる」と。生れつき我々のうちにある無知を、我々は長い間の研究によってやっ
と確信し確証した。ほんとうに学んだ人々には、あの麦の穂に起ることが起った。それは空っ
ぽであるかぎりますます頭をあげてそそり立つ。けれどもいよいよ熟して穀粒で満ちあふれて
くつと、だんだんへりくだってその頭を低くする。  (モンテーニュ『エセー』IIー12)

 思い上がりはわれわれの生来の、そして始原の病気だ。
                         (モンテーニュ『エセー』IIー12)

 ブラジルの住民は老衰によってしか死ななかったそうだ。これは気候が静かで澄んでいたせ
いだと考えられるが、私は彼らの心が澄んでいて、あらゆる激情や思考や張りつめた不快な仕
事から解放されて、学問法律も王様もいかなる宗教ももたずに、見事な単純さと無知の中に暮
らしていたせいだと思う。
 また、経験からも知られることだが、もっとも粗野で愚鈍な者が、愛の営みにおいていっそ
う強く望ましいということや、騾馬曳きの愛が伊達男のそれよりも女の気に入るというのはな
ぜだろうか。つまり、後者の場合には、精神の動揺が肉体の力をかき乱し、妨げ、疲れさすか
らではないだろうか。
 同様に精神の動揺は常に精神自体をかき乱して疲れさせる。精神の機敏さと精巧さと敏捷さ
ほど、つまり精神自体の力ほど、精神を狂わせ、錯乱の中に投げ込むものがあるだろうか。
もっとも過敏な錯乱は、もっとも過敏な知恵から生ずるものでなくて何でであろう。 
                         (モンテーニュ『エセー』IIー12)

 どんな緊張をした精神でも、ときには居眠りをするものだ。
                         (モンテーニュ『エセー』IIー12)

 《どんな不合理なことも、どこかの哲学者に言われなかったためしはない》(キケロ)
                         (モンテーニュ『エセー』IIー12)

  人間の理性は至る所で踏み迷ってばかりいるが、神の事に関わるときには特にそれがはな
はだしい。                    (モンテーニュ『エセー』IIー12)

 我々の生涯を夢にくらべた人は正しかった。おそらくその人たち自らが考えた以上に、我々
が夢を見ているとき、われわれの霊魂は生きている。その全性能を働かせている。目覚めてい
るときと、まさり劣りはしないのである。[中略] 
 我々は眠りつつ目覚めている。わたしは夢の中でそう明らかには見えないけれど、覚めてい
るときだって十分滑らかに・曇りなく・見ることはないのである。
                         (モンテーニュ『エセー』IIー12)

 結局、われわれの存在にも、事物の存在にも、何一つ恒常的なものはない。われわれもわれ
われの判断も、そしてすべての死すべきものも、絶えず流転する。したがって確実なものは一
つとしてたがいに立証されえない。判断するものも、判断されるものも絶えざる変化と動揺の
中にあるからである。               (モンテーニュ『エセー』IIー12)

 そして今日にあっては、コペルニクスがこの学説をじつにみごとに基礎づけ、それを天文学
上のあらゆる結果にたいしてひじょうに規則正しく適用している。(中略)そしてまた、
今から千年ののちに、第三の説が現れて、これらのふたつの先行する説を覆えさないと誰が知
ろうか。                     (モンテーニュ『エセー』IIー12)

 私は近所の百姓たちが、どんな態度と確信をもって最後の時を過したらよいかなどと考え込
むのを一度も見たことがない。自然は彼らに、死にかけたときでなければ死を考えるなと教え
ている。そしてそのときでも、彼らの姿は、死そのものと長期に亙る死の予想とで二重に攻め
たてられてられているアリストテレスよりも美しい  (モンテーニュ『エセー』IIIー12)

 いったい何のためにわれわれはこんなに気苦労な学問で身を固めようとするのか。
                         (モンテーニュ『エセー』IIIー12)

 判断力はあらゆる事柄に適用できる道具で、いたるところに関係する。この理由で、今わたし
がおこなっている自分の判断の試み(エセー)にたいしても、わたしはあらゆる種類の機会
を利用する。               (モンテーニュ『エセー』Iー50)

 わたしはつつましやかな、赫赫(かっかく)たるところの少しもないひとりの人間の生活を人
前に示すのだが、それはそうであってもまったくかまわない。
  (中略)
 一般の著作家たちは、ある何らかの個別的な、また本来のものではない特徴によっ自分たちを
世の人びとに知らせる。わたしは、わたしの普遍的なありようによって、ミシェル・ド・モン
テーニュとして、文法家とか詩人とか法律学者とかではなく知らせることをはじめておこなう人
間だ。もし世の人びとが、わたしがわたし自身についてあまりにも語りすぎると不満を洩らすの
ならば、わたしは、世の人びとは自分自身について考えるだけのこともしないと文句をつけた
い。                       (モンテーニュ『エセー』IIIー2)

 わたしはさまよう。それも、うっかりしてというよりは、むしろ自分で許してそうするのだ。
  (中略)
 わたしはとんだりはねたりする詩の進み方が好きだ。
  (中略)
 わたしは、節度なく、やみくもに、変化を追う。  (モンテーニュ『エセー』IIIー9)

 避けることのできないものは耐え忍ぶように学ばなくてはならない。われわれの一生は世界の
調和と同じように、相反する事物によって、異なった調子で、できている。(中略)
いいことと悪いことの両方を用いることをしらねばならぬ。この二つが共存してわれわれの生活
の実体をなしているのだ。われわれの存在はこの両者の混合なしにはありえない。そして、一方
の側にあるものは、他方の側にあるものに劣らず必要なのだ。
                         (モンテーニュ『エセー』IIIー13)

 睡眠をよく注意してみるように言われるのも、理由のないことではない。睡眠は死と似ている
ところがあるからだ。               (モンテーニュ『エセー』IIー6)

 わたしの考えでは、死は生の末端(ブー)ではあるが、しかしその目的(ビュ)ではない。
(中略)生の当然の努力は、みずからをととのえ、みずからを導き、みずからを耐えること
だ。このいかに生きるかを心得るという一般的な主要な事柄などの他の義務といっしょに、い
かに死ぬるかを心得るという項目がある。      (モンテーニュ『エセー』IIIー12)

 奇跡はわれわれが自然について無知であるから存在するのであって、自然の本質によって存
在するのはない。                 (モンテーニュ『エセー』Iー23)
    ☆迷信や奇跡について、その不合理を指摘する。

 私はわが国の宗教戦争の紊乱が生んだ残酷な例がふんだんに見られる時代に生きている。古
代の歴史にさえ、われわれの毎日経験しているよりも極端なものは見られない。だからといっ
てけっして残酷になじんだわけではない。私はこの目で実際に見るまでは、ただ快楽のために
殺人を犯そうとするような怪物じみた人間がいることを信じることができなかった。他人の手
足を切り刻み、精神を研ぎすまして突飛な拷問や新しい死刑の方法を案出し、敵意も利益もな
いのに、ただ苦悩の中に死にかける人のあわれな身振りや、うめき声や、かわいそうな泣き声
を見て楽しむことだけを求める人間がいることを信じることができなかった。
    ☆宗教戦争が生んだ紊乱、人間の残酷さ。   (モンテーニュ『エセー』IIー12)

 わたしはならうよりも逆らうことによって・従うよりも避けることによって・学んだが、世
には同じたちの人も多少はあるらしい。大カトーもこの種の修業を念頭に、「賢者の愚に学ぶ
ところは愚者の賢者に学ぶところよりも多い」といったのである。
  (中略)
 毎日、だれかのばかげた態度が、わたしに警告してくれる。
  (中略)
 暗愚は悪い素質である。けれどもこれに耐えることができず、わたしにもよくそういうこと
があるが、これを悲しみわずらうのも、また一つの病であって、その耐え難さにおいては、た
いして暗愚そのものに劣らない。これこそわたしが、自分について告発しようと思うことがら
である。                     (モンテーニュ『エセー』IIIー8)

 徳行の報いを他人の賞賛のうえに築き上げようとするのは、あまりにも不確実な基礎を選ぶ
ことである。とくに当世のように人心が腐敗して無知な時代には、民衆の好意はむしろ有害で
ある。                      (モンテーニュ『エセー』IIIー2)

 アレクサンドルに向って「何ができるか」と問うならば、「世界を従えること。」と答える
だろう。同じようにソクラテスに問うならば、「人間の生活をその持って生まれた本性にする
こと。」と、この人は答えるであろう。この方が広い・重んずべき・正しい・知識である。霊
魂の価は高く行くことではなく、秩序正しく行くことにある。
 偉大な霊魂は、偉大な身分のうちに見いだされず、中くらいの身分のうちに見いだされる。
                         (モンテーニュ『エセー』IIIー2)

 確かな目的を持たない霊魂はさまよう。まったく、人の言う通り、いたるところにあるとは、
いずこにもあらざることなのである。        (モンテーニュ『エセー』Iー8)

  明けゆく毎日をおまえの最後の日と思え。
  そうすれば当てにしない日はおまえの儲けとなる。(ホラチウス)

 キケロは、「哲学するとは死に備えることにほかならぬ」と言った。つまり研究と瞑想(めいそ
う)とは、いわばわれわれの霊魂をわれわれの外部に引き出し、これを肉体と別に働かすことで、
結局死のけいこ・まねごと・みたいなものだからである。あるいはまた、世の知恵や哲理の究極は、
ひっきょう、死をまったく恐れないようわれわれに教えるという、その一点に帰着するからだろう。
                        (モンテーニュ『エセー』Iー20)

 徳の主要な恵みは死の蔑視であって、これこそ、われわれの人生に物柔らかな静隠を与え、われ
われに人生の清らかな快い味わいを与えるもので、実にこれがなくては、他のもろもろの快楽もそ
の影を消すのである。                  (モンテーニュ『エセー』Iー20)

 どこで死がわれわれを待っているかわからないから、いたるところでそれを待ちうけよう。死を
学んだ者は奴隷であることを忘れるのだ。死の習得はあらゆる隷属と拘束から解放する。生命の喪
失がいささかも不幸でないと悟った者にとってはこの世には何の不幸もない。
                         (モンテーニュ『エセー』Iー20)

 わたしは人が働くことを、人ができるだけ人生の務めを長くすることをのぞむ。そして死が、
わたしがそれに無頓着で、いわんや菜園が未完成であることことにも無頓着で、ただせっせとキ
ャベツを植えている最中に、やってきてくれることを望む。
                         (モンテーニュ『エセー』Iー20)

 本当に、父兄の心遣いと費用とは、ただ我らの頭の中に学問を詰め込むことばかりをねらって
いる。判断や徳操に至ってはほとんど問わない。   (モンテーニュ『エセー』Iー25)

 もしひとが、わたしがなぜ彼を好きだったか言わせようとすれば、それは彼だったから、それ
はわたしだったから、と答える以外言い表わしようはないと思われる。
    ☆ボルドー高等法院の同僚エチエンヌ・ド・ラ・ボエシとの友情。
                         (モンテーニュ『エセー』Iー28)

 死んだ者を食うより、活きた人を食う方が遥かに野蛮であると思う。
    ☆西洋人による宗教戦争の野蛮さ。     (モンテーニュ『エセー』Iー31)

 ほんとうに欺瞞が幅をきかすのは不可知の世界である。・・・そこで人に最もわからない事柄
が一番堅く信ぜられる事になり、荒唐無稽なことを語る者どもが最も確信ある人ということにな
る。                       (モンテーニュ『エセー』Iー31)

 わたしは自己の在りようを基にして他人を判断するという世間一般の誤謬を少しも持たない。
他人には自分と全く違ったところがあることを容易に信ずる。
                         (モンテーニュ『エセー』Iー37)

 妻も持つべし、財宝も持つべし。できれば特に健康を持つべし。ただし、我らの幸福はかかっ
てそこにあるというほどに、それに執着してはいけない.....
                         (モンテーニュ『エセー』Iー39)

 この世で一番大切なことは、自分に帰ることを学ぶことである。
                         (モンテーニュ『エセー』Iー39)

 日ごとに新たなる思いがあり、我らの心持ちは天気とともに変わる。
                         (モンテーニュ『エセー』IIー1)

 生来温厚の君子であるために人の侮辱を何とも感じない人もまた、はなはだ立派な讃むべきこ
とをしているのであろうが、恨み骨髄に徹しながら理性の武器によって切なる復讐の念を抑える
であろう人、大いなる煩悶の後ついにこれを制御するであろう人こそ、確かに前者にまさるであ
ろう。前者は善行、後者は徳行であろう。      (モンテーニュ『エセー』IIー11)

 人は他人が書いたものの意味を、とかく自分が心の中にあらかじめいだいている意見につごう
よくこじつけたがる。               (モンテーニュ『エセー』IIー12)

 人間の疾病(ペスト)は、「われ知れり」という誤った考えである。
                         (モンテーニュ『エセー』IIー12)

 難解とは、学者たちが手品師のように、その学芸の空なることを示すまいとて用いる貨幣であ
る。これによって人間の痴愚はまんまと買収される。 (モンテーニュ『エセー』IIー12)

 我らは最も小さい病気も感ずるくせに、完全な健康は少しもこれを感じないのである。
                         (モンテーニュ『エセー』IIー12)

 世の人は常に自分の正面を見る。わたしは眼を内部にかえす。そこに据えてじっと離さぬ。各
人は自分の前を見る。わたしは自分の内部を見る。わたしはただわたしだけが相手なのだ。わた
しは絶えずわたしを考察し、わたしを考察し、わたしを検査し、わたしを吟味する。他の人々は
常によそに行く。                 (モンテーニュ『エセー』IIー17)

 沢山の部面をもつ事柄を、一ぺんに判断しようというのは間違っている。
                         (モンテーニュ『エセー』IIー32)

もし世の人たちがわたしが余り自分について語るのを嘆くならば、わたしは彼らが自分だに考え
ないことをうらみとする。             (モンテーニュ『エセー』IIIー2)

 わたしはあまり自分の意見を重んじないが、その代わり他人の意見をもあまり重んじないので
ある。わたしは人の意見をあまり重んじないのである。わたしは自分の意見を人に押しつけるこ
とはなおさら少ない。                (モンテーニュ『エセー』IIIー2)

 精神は肉体と極めて仲良しであって、しょっちゅうわたしが肉体の要求に追随するのをそのま
まにゆるしている。だからわたしは、精神にだけ媚び彼とだけ仲よくなっていたのである。
                         (モンテーニュ『エセー』IIIー5)

 万事を名誉と栄光とのためになす者よ。仮面して世間にまみえ、その真の存在を人々の認識か
らかくして、そもそもどんな得をしていると思っているのか。
                         (モンテーニュ『エセー』IIIー5)

 人がわたしに逆らう時、わたしの注意は覚めるが、わたしの怒りは燃えない。わたしは、わた
しに逆らいわたしを教える者の方に進み出る。真理を論証することこそ、我等共通の立場でなけ
ればならぬ。                   (モンテーニュ『エセー』IIー8)

 愚者(ばか)を相手にまじめに議論することは不可能である。かかる向こう見ずの先生にか
かっては、わたしの判断ばかりかわたしの良心までも腐ってしまう。
                         (モンテーニュ『エセー』IIー8)
                  
 この世界は探究の学校でしかない。肝心なのは、だれが的にあてるかではなく、だれがもっ
ともみごとな走り方をするかなのだ。        (モンテーニュ『エセー』IIー8)

 わたしは強力にして博学なる思想をもとうとはあえて思わない。むしろ楽な・生活に適応せ
る・それを持ちたいと願っている・思想は役に立つ愉快なものでありさえすれば、それで十分真
実かつ健全だと思う。               (モンテーニュ『エセー』IIIー9)

 彼らはただ忙しがりために仕事をさがしている。それは行きたいからでなく、むしろじっとし
ていられないからである。少しも、転落する石と選ぶところはない。
                         (モンテーニュ『エセー』IIIー10)

 驚異はすべての哲学の基礎、詮索はその道程、無知はその究極である。
                         (モンテーニュ『エセー』IIIー11)

 犯罪そのものよりを遥かに罪深い処刑を、いかに多くわたしは見たことであろう?
                         (モンテーニュ『エセー』IIIー13)

 我らがちがった境遇にあこがれるのは、自分の境遇をいかに活用すべきかを弁えぬからであ
り、自分を脱けだすのは、自分の内部がどのようなものであるかを知らないからである。
                         (モンテーニュ『エセー』IIIー13)

 人生を楽しむにはなかなか加減が要る。わたしは他の人々の倍それを楽しんでいるが、まった
く享楽の深い浅いは、我らがこれにそそぐ熱意の多少によるのである。特に今では余生がこんな
にも短くなっているのを知っているから、わたしはそれを厚みにおいて増したいと思う。
                         (モンテーニュ『エセー』IIIー13)

 快楽は決して追っても避けてもいけない。ただ受け入れなければいけない。
                         (モンテーニュ『エセー』IIIー13)

 いかにこの人生を良くそして自然に生活すべきかということほど、むつかしい学問はない。
                         (モンテーニュ『エセー』IIIー13)

 人生の安楽をこんなに熱心に・またこんなに特別に・抱擁して誇りとしているわたしも、今こ
うやってそれらをくわしくながめて見ると、ほとんど風を見い出すばかりである。だが今さら何
を驚こう? 我々はどこからどこまでも風なのである。いや風の方が、我々人間よりはまだ賢明
である。ざわざわと鳴ったりあばれたりすることが好きだけれど、かれ特有の努めに満足し、あ
えてかれの特質でない安定や堅固を乞いもとめることがない。
                         (モンテーニュ『エセー』IIIー13)

 ともかく、お前は病気だから死ぬのではない。活きているから死ぬのである。死は病気の助け
を借りなくたって立派にお前を殺すのである。    (モンテーニュ『エセー』IIIー13)

 われわれはいままでに他人のために十分に生きてきた。今度はせめて、わずかばかりの余命を
自分のために生きようではないか。[中略]われわれを自分以外のところに縛りつけ、自分自
身から遠ざけるあの横暴な拘束から身軽になろう。あの強い束縛をほどかねばならない。
[中略]何よりも大事なことは、いかにして自分を失わずにいるかを知ることである。
                         (モンテーニュ『エセー』Iー39)

 奇跡は、われわれが自然について無知であるから生まれるので、自然の本質から生まれるので
はない。                     (モンテーニュ『エセー』1ー23)

 食卓を賑わすためには、考え深き人でなしに面白き人を招く。寝床には立派な女よりも美しき
女を迎える。議論の仲間には能力のある人を選ぶ。必ずしも正直でなくともよい。その他おおむ
ね同様にする。                  (モンテーニュ『エセー』Iー28)

 偉大な詩人でなければ破格の調べを用いないように、偉大卓抜な霊魂でなければ習慣を超越す
る特権をほしいままにすることはゆるされないのでございます。
                         (モンテーニュ『エセー』Iー26)

 教師は生徒にすべてを篩いにかけさせ、何事も単なる権威や信用だけで頭に宿さないようにさ
せなければなりません。アリストテレスの原理も、ストア派やエピクロス派の原理と同じく、生
徒にとって原理であってはなりません。千差万別の判断を彼の目の前に出してみせることです。
彼はできれば選択するでしょうし、できなければ懐疑の中にとどまることでしょう。[中略]

   知ることと同じように、疑うことは私には気持ちがよい。(ダンテ『神曲』)

 なぜなら、もしも彼がクセノフォンやプラトンの思想を自分の判断にいだくなら、それはもは
や著者のものではなく、彼自身のものだからです。他人に従う者は何にも従ってはいないのです。
《われわれはいかなる王にも従属しない。各人は自らの自由を主張せよ》(セネカ)少なくとも
彼は知っているということを知ることが必要です。彼は彼らのものの考え方を自分の中に染み込
ませねばなりません。彼らの教訓を学ぶだけではいけないのです。そして何なら、そしてそれを
どこから得たかなどといったことは思い切って忘れてしまってもいいから、それを自身のものと
して身につけるようにしなければなりません。真理と理性はみんなの共有物であって、後から言
った人よりも先に言った人に属するというものではありません。[中略]彼の教育も勉強も学
習も、ただこの判断を作るのが目的なのです。    (モンテーニュ『エセー』Iー26)

 われわれは自分で歩むのではなく、人に運ばれている。水に浮かぶものが、水が怒っているか
機嫌がいいかによって、ときには静かに、ときには荒々しく、運ばれるの似ている。
                         (モンテーニュ『エセー』IIー1)

毎日、新しい思いつきが生まれ、われわれの気分は天気と共に変わる。
                         (モンテーニュ『エセー』IIー1)

 われわれはみなもろもろの断片からなっている。しかもその構造ははなはだ雑然としてちぐはぐ
であるから、各断片は各瞬間ごとに思い思いのことをやる。だからある時のわれわれとまた別のあ
る時のわれわれとの間には、われわれと他人との間におけるほどの相違がある。《常に同一の人で
あることははなはだむずかしいことなのだ》(セネカ) (モンテーニュ『エセー』IIー1)

 われわれの行為は、いろいろなもののはぎ合わせにすぎない。《彼らは快楽を侮りながら苦痛に
おいて弱い。光栄を蔑視しながら誹謗(ひぼう)の前に折れる》(出所不詳)われわれはうその旗
印をかかげて名誉を得ようとする。         (モンテーニュ『エセー』IIー1)

 われわれの行為は寄せ集めの、つぎはぎ細工にすぎない。《快楽を軽蔑するが、苦痛には弱
い。栄光を無視するが、不名誉には心くじける。》(キケロ)われわれは偽の看板をかかげて名
誉を得ようとする。                (モンテーニュ『エセー』IIー1)

 糸はどこできれようと、それはそこで完成したのだ。そこが糸の端なのだ。最も意欲した死こ
そ、最も美しい死である。生は他人の意志による。死に臨んでこそ、最も我々は我々の意志に従
わねばならない。                 (モンテーニュ『エセー』IIー3)

 私が書物に求めるものは、そこから正しい娯楽によって快楽を得たいということだけである。
勉強するのもそこに自分自身を知るための学問、よく死に、よく生きることを教える学問だけ
を、求めているのである。             (モンテーニュ『エセー』IIー10)

 私のもう一つの読書、娯楽のほかにやや多くの利益をもたらす読書、私が自分の思想と性格
を調整することを学ぶ読書、そういう目的に役立つ書物は何かというと、それはフランス語に
なってからのプルタルコスとセネカである。     (モンテーニュ『エセー』IIー10)

 人間の理性は至る所で踏み迷ってばかりいるが、神の事に関わるときには特にそれがはなはだ
しい。                      (モンテーニュ『エセー』IIー12)

 《不確実ほど確実なものはない。人間ほど悲惨で不遜なものはない。》(プリニウス)
                         (モンテーニュ『エセー』IIー14)

 我々の欲望は、その手元にあるものには眼をくれず、それを飛び越えて自分が持たないものを
追いかける。[中略]
 我々に何かを禁ずることは、我々にそれを欲しがらせることになる。
                         (モンテーニュ『エセー』IIー15)

 極端はわたしの主義の敵なのである。         (モンテーニュ『エセー』IIー33)

 わたしは決してわたしの思想に反する思想を憎みはしない。わたしの判断と他人のそれとの間
に大きな食いちがいがあるのを見ても、どうしてどうして、わたしはいきり立つどころではない。
人々が自分とは異なる分別を持ち、異なる意見を持つからといって、それらの人々の交際に背を
向けるどころではない。むしろ変化こそ自然が採用した最も一般的な流儀なのであるから、それ
は物体においてよりも精神においてますます多くあるものであるであるから、(なぜなら精神の
方がより柔軟な・より多くの形を与えられ易い・実体であるから、)わたしは我々の考えや企て
に一致を見たら、かえって珍しいことと思うのである。実に、世に二つと同じ意見はなかった。
二筋の髪・二粒の米粒、が同じでないように、人々の意見に最も普遍的な性質といえば、それは
それらが多様であることである。          (モンテーニュ『エセー』IIー37)

 つまらないことが我々の気持ちをそらせ、変えさせる。つまらないことが我々の心をとらえる
からだ。我々は事物を全体として、そのものだけとして見ない。我々の心を打つのは、些細な上
っ面の事情と姿である。事物から脱け出てくる空虚な上皮である。
                         (モンテーニュ『エセー』IIIー4)

 嫉妬は精神の病気の中で、一番つまらぬ原因のために起こり、一番つける薬のない病気である。
                         (モンテーニュ『エセー』IIIー5)

 わたしは物を書くとき、書物の助けをかりたり、かつて読んだことを思い出したりすることを
しないようにする。書物がわたしの考え方に影響するといけないからである。
                         (モンテーニュ『エセー』IIIー5)

 わたしはあえてこう言おう。「男も女も同じようにできている。教育と習慣を除けば大した差
異はない。」                   (モンテーニュ『エセー』IIIー4)

 われわれの生命はどこで終わろうとそれはそこで全部なのだ。人生の有用さはその長さにある
のではなく使い方にある。長生きをしてもほんど生きなかったものもある。
                         (モンテーニュ『エセー』Iー20)

 われわれは事物を解釈するよりも解釈を解釈するのに忙しい。どんな主題に関するよりも書物
に関する書物の方が数が多い。われわれはたがいに注釈し合うことばかりしている。
 注釈書はうようよしているが、著者のほうは大いに欠乏している。
                         (モンテーニュ『エセー』III−13)

 私の言うことを信用するなら、若い人はときどきは極端に走るがよい。 そうしておかないと
ちょっとした道楽にも身をほろぼすことにもなり、人とのつきあいにも扱いにくい不快な人間に
もなってしまう。紳士たるものにもっともそぐわない性質は、やかましすぎること、ある特別な
生き方に束縛されることだ。生き方は順応性がないと気むずかしいものとなる。
                         (モンテーニュ『エセー』III−13)
  
 私は踊る時には踊る。眠る時には眠る。また、一人で一人で美しい果樹園を散歩するときも、
いくらかの時間は、何かほかの出来事を考えているけれども、それ以外の時間は、これを散歩に、
果樹園に、この一人でいることの楽しさに、私自身のことに、連れもどす。自然は、われわれの
必要のためにわれわれに命ずる行為を、われわれにとって快適なものするという原則を慈母のよ
うに守ってくれた。そしてわれわれを理性によってばかりでなく、欲望によってもそこに誘って
くれる。この自然の原則を損なうのは不正である。  
(モンテーニュ『エセー』III−13)

 哲学者の詮索や瞑想(めいそう)は、われわれの好奇心の糧(かて)となるだけである。哲学者
たちがわれわれを自然の規則に押し返すのははなはだもっともなことであるが、その自然の規則は
何もあのような崇高な知識を必要とはしないのである。彼らはそれらを偽造し、彼女〔自然〕の顔
をあまりにけばけばしく、あまりに人為的に塗(ぬ)り立ててわれわれに示すので、あんなに一様
な一つのものに対して、あんなにもいろいろな肖像が生まれることになる。彼女はわれわれに歩く
足をつけてくれたように、生きてゆくための知恵もつけてくれた。それは哲学者が発明したそれの
ように・巧妙な・がっちりした・ものものしい・知恵ではないが、いかにも彼女にふさわしい楽で
健康な知恵である。それは幸いにして素朴に適正に・換言すれば自然的に・生きることを知ってい
る者においては、哲学者の知恵が約束する以上のことを立派にしてのけている。もっとも単純にそ
の身を自然に委せるということは、これに最も賢明に身を委せることである。おお無知と無好奇こ
そはよく作られた頭脳を休めるのになんと楽な・柔らかい・そして健康的な枕であろう!
 (関根注※ おそらくこの句は、モンテーニュの中で最もしばしば引用せられ最も人口に膾炙(い
しゃ)せるものの一つであって、彼の怠惰と懐疑主義との根拠にせられがちであるが、むしろモン
テーニュの健康な常識をこそ、ここに見るべきである。これは学問知識の否定ではなくして、単に
第一原因を究明せねばおられぬ哲学者の思い上がりと、かかる哲学の非健康性とを、たしなめてい
るにすぎない。)               
                        (モンテーニュ『エセー』III−13)

 まず、私にものを書いてみようという夢想を起こさせたのは、ある憂鬱な気分、したがって、私
の生まれつきの性格とは大いに相容れない気分の仕業なのです。その気分は、私が数年前に飛び込
んだ孤独の淋しさから生まれたものなのです。 それに、私にはほかに書くべき材料が何一つありませんので、私自身を自分の前に差し出して、これを材料とも主題ともしたわけなのです。これはこの種のものとしては世界にただ一つの書物であり、奇妙でとっぴな企てなのです。
                         (モンテーニュ『エセー』II−8)

 われわれの幸福とは、悪い状態の欠如にすぎない。だからこそ、快楽に最大の価値を認めた哲学
の学派(エピクロス派)は、さらにすすんで、快楽をただ、苦痛のない状態としたのである。少し
も苦しみを持たないということが人間の望みうる最大の幸福なのである。[中略]
 そこで私はこう言うのである。「もし単純さがわれわれを無痛に導くとすれば、この単純さはい
まのような境遇にあるわれわれをきわめて幸福な状態に導くものである」と。
 だが、その単純さを何の感情もない鈍感なものと想像してはならない。実際、クラントルが、エ
ピクロスの無痛を、苦痛の接近も発生も感じないほど深いところにあるものなら、そんなものはご免こうむる、と言ったのはもっともである。私はこのように可能でもなければ望ましくない無痛を少しも誉めたいとは思わない。病気でないことを嬉しくは思うが、病気のときは病気であることを知りたいし焼灼されたり切開されたりするときはそれを、それを感じたいと思う。本当に苦痛の感覚を根滅するなら、同時に快楽の感覚をも絶滅し、結局は人間そのものを破壊することになろう。
                       (モンテーニュ『エセー』II−12)

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 モンテーニュの塔の書斎の天井の梁に刻まれた文
<天井の梁に刻まれたこれらの文は、『エセー』の発想の源の一部(たとえば懐疑主義)
となっている。その一部。>

 まず書斎のそばの小部屋の壁に書かれた文から。モンテーニュは自らを三人称で書いて
いる。

 キリスト紀元一五七一年三月一日の前日、すなわちその三十八歳の誕生日に、ミッシェル・ド・モン
テーニュは、久しい前から法廷での隷従と公務の責務とに倦み疲れているため、まだ十分に壮健ではあ
るが、安息と平安のうちに、なお残っている日々を過ごすことができるようにと、博学な女神たちの胸
にひきこもることにした。どうか運命が彼に恵みを与え、彼がその祖先伝来の快適な住居を充実して、
その自由と平静と閑暇のためにあてることを許されるよう。

 神が人間に知識の欲望を与えたのは、人間を苦しませんがためである。
(『旧約聖書』「伝道書」)

 風は空の革袋をふくらませ、傲慢は判断力のない人間をふくらませる。 (ストパイオス)
 
 何も考えないこと、これこそ最も楽しい生活だ  (ソフォクレス)

 それはこうでもなくああでもない。すなわちそのどちらでもない。
(セクストス・エンペイリコス)

 天も、地も、海も、あらゆるものは、偉大な全宇宙に比較すれば何でもない。
(ルクレティウス)

 善きものはすばらしい。  (プラトン)

 神は自分以外のだれにも、高ぶる心を持つことを許さない。(ヘロドトス)

 おまえに最後の日を、おそれもするな。よろこびもするな。(マルティアリス)

 わたしは人間だ、人間のことで、何ひとつわたしに無関係なものはない。
(テレンティウス)

 適切な度合以上に賢いのはいけない。節度をもって賢くあるように。
(『新約聖書』「ローマの使徒への手紙」) 

 なにびとも知らない、知りえないであろう、確実な何事も。 
(セクストス・エンペイリコス) 

 われわれが死と呼ぶものが生であり、死ぬことが生きることであるかもしれない。
(エウリピデス)

 同じことをこうも言えるしああも言える。  (ホメロス)
 
 人間はお話に飢えている。      (ルクレティウス)

 すべてのものにむなしさがある。  (『旧約聖書』「コヘレトの言葉」)

 節度を守り、限界を超えず、自然に従うこと (ルカヌス)

 土と灰であるおまえが何を誇るのか。(『旧約聖書』「シラ書」)

 現在そこにあるものを楽しみ用いよ。それ以外のものはきみにとって余計なものだ。
(モンテーニュのラテン語句)

 いかなる理由にも同様な反対理由を対置できる。 (セクストス・エンペイリコス) 

 われわれの魂は闇のなかを行く。目は見えず、真実を分別できない。  
(ミシェル・ド・ロピタル)

 不確実ほど確実なものはない。人間ほど悲惨で不遜なものはない。(プリニウス)

 自分を重要だと思うことによりおまえは滅びる。自分をひとかどの人物と思いこむ
ことによって。          (メナンドロス) 

 人間は物自体でなく、それにかかわる考えによって苦しめられる。(エピクテトス)  

 死すべき人間は自分の分に応じた思想をもつことがふさわしい。  (エウリピデス)

 なぜおまえの弱い魂を力を超えた永遠の計らいのために疲れさせるのか。
 (ホラティウス)

 わたしは何事も決定しない。 (セクストス・エンペイリコス)

 わたしは判断を保留する。(セクストス・エンペイリコス)

 わたしは検査する。習慣と感覚を案内者として一方に傾くことなく  
              (セクストス・エンペイリコス)        


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