バニョレの義勇射手兵 (独白劇・一人芝居)(角笛を吹きながら義勇射手兵登場) 今日は戦いの日だ。だが、いくら吹いても駄目だ。 さて、帰らなければなるまい。 こころならずも、我が家にね。 そうは言ってもこれほど剛毅な心に なったのも久し振りのことだ。本当に残念だ、 戦う相手がいないなんて! だれか、四人ばかりいないか... そうだ、四人がかりでおれに 挑もうってやつは? はやく集まってこい。 この革籠手が褒美だぞ。 誓って小姓なんぞはこわくない、 そいつが十四歳以下の奴ならば。 戦場にいたとき 神のお慈悲で、イギリス兵を五人つかまえて 稼がしてもらった。 あわれな捕虜をなぐり倒すと すぐに身ぐるみはがしてやった。 アランソンの包囲の時*だった。 *一四四九年 三人は身代金の支払いに応じたが、 四人目のやつはにげてしまった。 五人目は、その音を聞いて、 おれの喉を締めにかかった。 もしおれが「聖ジョルジュ!」と敵の守護神の名を叫ばなかったら、 いくらおれが善良なフランス人だといっても、 だれにも助けられずに 殺されていたわけだ。 頭の上を酒瓶でなぐられたような 気がしたとき、おれは言った、 「さあここに来てよ、仲良くしょうよ。 余計な争いはしたくはないね。 まあまあまあ、一緒に飲もうよ! いまのところ体が震えているけど、 あんたを恐がっているわけじゃないんだ」 (聴衆の後ろから誰かが「コケコッコウ」と叫ぶ) ありゃ、何だ? 鶏の鳴き声がきこえたてきた、 どこかの婆さんの家からかな。 婆さんを起こせってことかい。 鶏小屋がここいらにあるのかな。 アンスニでのことだったか、 それとも、シャン・トゥルセのことだったか*。 *一四六八年 ああ、甥の一人が死んで 本当に悲しかった。 髭をめがけて大砲の玉が飛んできて 髪の毛に当たった。 おれは叫んだよ。「聖バルブ!* *髭(barbe) のだじゃれ。砲兵隊の守護神でもある。 今度はお助けください。 次にはお返ししますから」 そいうわけで、大砲におれの体は震えた。 この不運にみまわれたのは、 城塞を占拠した時だった。 バロナ、マルキ、 クラン、キュルソ、レグル、ブレソワイエールといったお偉方が 事の顛末を見にいそいでやって来た。 ラ・ロシュフーコー、ラミラル、 ブーユとその配下のものたちも、 ポンティエヴルと将校たちもやって来て、 おれを落ちつかせようとして、 鉄の籠手を脱いで、おれをその傷ついた場所に 寝かせてくれた。 「やつは答えようとはしない」と言われるのがいやで 気分がわるかったが 兜に手をやった。 というのは、顔にかぶさって息ができなかったからだ。 マルキはいった。「あー、お前の並はづれた勇気のゆえ お前はいつか死ぬことになるのだなあ。」 というのは、殿は軍隊の遥か前、城に向かって 走るおれを見ておられたからだ。 それににしても残念だ、マントをなくしてしまった。 というのは、隠し門を 酒場の入口とかんちがいして、置いてきたからだ。 おれは、すぐ逃げ出した。 というのはラッパが鳴るのが聞こえたからだが、 勇気も増そおっていうもんだ。 「どこだ、どこだ」と言って、 要するに、安全な所に 逃げて隠れたわけだ。 その時叫び声が聞こえ、 それが草原の向こうの仲間たちの 「ピエール*、ピエール、何をしてる? *義勇射手兵の名前。ペルネともいう。 鶏小屋を襲わないのか!」 と言う叫び声だったら別だ。 ひとりでもすぐ攻撃をかけたろうし、 おれはそのていどの無鉄砲な勇気は持ち合わせている。 それにしても、もし一人の小姓がやってきて、 道を塞がなかったら、 軍隊仲間のギィユマンとおれは (神よ、奴を許されよ、 奴をまきこんでしまったのだ) まちがいなく、戦場を越えて、 イギリス人を薙ぎ倒していたのに。 だが、おれたちは勇猛心をしずめて、 後退した。 なんて言ったっけ、後退したわけじゃない。 ──こんなことは自分でいうことじゃないが、 アンジェの酒場、ライオン亭まで一寸行ったわけだ。 おれは危険以外こわいものはない、 そうなのだ、他のものは恐くない。 大小の大砲による戦闘が終わろうとするとき、 「チップ、タップ、シップ、サップ! 前線の柵へ! 両翼に!前へ、後ろへ!」 という音や声が入り混じって聞こえてきたはずだ。 おれも胸当に玉を一発くらった。 そこにいた御婦人がたも 大砲の玉ときん玉*は恐がっていた。 *coullart(大砲)が(きん玉)と地口になっている。 おれも確かにかなり好き者だし、 そいつは一つちゃんと持ち運んでいる。 いそいで火薬に火をつける ようなことをしなかったら、 おれは御婦人がたのお持ちのものを 破壊し、雷のように打ち砕いていたのだが。 そいつは、双子のような二つのかたまりで、 つまり、おれの大砲は、そんなもんだ。 そいつで攻撃すると 御婦人がたは手をあわせる。 あるものは、土のようにつまった、きれいな、乾いた 小振りの大砲をつかう。 それから? 激しい砲弾の音の中 高らかにラッパの音が聞こえ、 大砲の音にあわせて 娘たちが踊り出す。 このことを考えると、 誓って言うが、女たちとの戦争は無益なものだ。 おれはいつも女たちに同情してきた。 大砲が壁をつらぬくんだからね。 そいつがつらぬけないとしたら、女らは よっぽど硬い腹をしているてことになる。 女たちに与える痛みを考えてみろよ、 気高い心を持っていない御仁よ。 村に住んでる農夫だって、 ど田舎の野郎たちのことを言っているのだが、 女たちに痛みを与えるのには 躊躇するぜ。 おれたちは紳士といっていい、 下司なやつらには目をひからせている。 おれは戦場に臨んでいた、 いつも、腰に槍、つまり短い槍をつけてね。 このおれを見ることができるなんて ほんとにすごいことなんだぞ。 一人のイギリス人がおれに挑んできた、 やつは槍でもって功名をたてていた。 だが、やつは幼いときから腰が砕けていた、かわいそうに。 大胆にも、一人で来たのだ、 谷越え、山越え、一戦交えようと。 やつは、馬を軽快に走らせようと、 はやっていた。 おれは後ろから、 脚を腰のところまで切りつけた。 これはある日曜日の朝ことだった。 なにを言ってるんだ、月曜日の朝だった。 やつは繻子の武具しかつけていなかった、 それほどまでも腰を痛めるのを恐れていたのだ。 やつは騎馬試合のときは いつも、馬の甲を攻めたり、 多分馬の尻尾を直接せめていたのだ。 彼の馬は鼻を病んでいたので、 自分の馬を打つ場合は、 頭やたてがみのうえを、 短い節くれだった棒で打っていた。 それほど馬をびっこにするのを恐れていた。 そこで、馬がつまずくのを恐れて、 一歩一歩きちんと進めていた。 頭上に頭陀袋のような 長い旗を掲げていた。 このような男をこそ、 百万もの金で歓迎してやらなくちゃ。 戦う男、それこそ大いなる宝だ! なんの価値もなかった男だったら、 いうこともあるまい。 ラ・イール殿ともに手柄をたてたこともあった。 殿には若き時代まるごと仕えた。 従者となり、そして小姓に、 射手兵に、そして槍をもった、 裾をまくりあげた雌豚のようなお腹のうえに 槍を突っ立てた。 それにラ・ロシュ殿だが、 神よ許されよ!殿はおれを小姓に召し抱えられた。 おれは気高く美しかった; 歌をうたい、笛をふいていた、 丘の狭間で射撃の稽古をしたものだ。 要するに、ここにいる子供*のように * 観客の中の子供を指して かわいかった。 この子よりもずっと若かった。 そうだ、そうそう、どこから 襲撃すれば良いのかな、 さっき鳴いていた鶏を? 口数の少ないものが褒められるってわけ。 この館*を襲おうかな。 *鶏小屋 (この時、義勇射手兵は麻でできた案山子に気がつく。案山子は兵隊 の格好をしており、前には白い十字架を、後ろには黒い十字架をつけて いて、手には弩をもっている。) ああ、なんてことだ、 力がなえた。いったい何だ。 「ああ、お願いです、哀れみを! 弓を上げてください!命を助けてください。 (彼は、白い十字架に気づく。) 確かにあなたの十字架で ふたりとも同じ陣営のものだとわかりました。」 いったい全体、どこから出てきたんだろう、 たった一人で、恐ろしいなりをして。 「どうなさいました? 道にお迷いで? 武器を下げてください。謝りますから。 その弩を射るなら上のほうへ 遠くのほうにしてください。」 (その時、彼は黒い十字架に気づく) なんてことだ、イギリス人じゃないか、 それなのに、自分がフランス人だと言ってしまった。 こんどこそ万事休すだ、 ペルネよ、かれは敵軍だ。 「もしもし、どこを射ようとされるんですか? 何をなさろうとしているかわかっておられない。 そうなんです、わたしはあなたと同じようにイギリス人です。 聖ドゥニ万歳、それとも聖イヴ万歳!* *聖ドゥニはフランス人の、聖イヴは どっちでも構いません、命が助かれば。 イギリス人(Bretonブルトン人)の守護聖人。 本当に、わが殿よ、 わたしがなにものかお知りになりたいのでは、 母はアンジュウの生まれ、 父の出身地は知りません、 ただ、モンプリエの生まれだと 聞いたことがあります。 お名前をお教えいただけないでしょうか? ロラン殿、それともイヴォン殿? おきにめすなら、死んでもみせましょう。」 なんだって? おれをいじめ続けよう という魂胆かな。 おれの話を聞こうともしない。 「キリストのご受難にかけて、 告白をさせてください。 わたしは深く病んでおります。 さあ、これがわたしの兜です、 それはどこも傷んではいません、 剣と一緒にお渡しします。 わたしのために祈ってください。 聖ジャックへの祈りをあなたにゆだねます。 そのためにわたしの胴着と ベルトと角笛をお受けください。」 不本意ながら、死ぬことになるのだぞ、ペルネよ! そうなんだ、不本意に、無理やりに。 この苦しみに堪え忍えねばならぬ以上、 これ以上抵抗しないことだ。 どうぞ、観客のみなさん*、バニョレの義勇射手兵の *観客に向かって 魂のために祈ってください。 そして、次のように、わたしについての 簡単な墓碑銘を書いてください。 ここに、フランス義勇射手兵、ペルネ眠る。 退くことなく、ここで死す、 逃げる時間がなかったから。 神がその恩寵により 彼を義勇射手兵たちや騎兵たちの魂とともに 天国へやってくださいますように。 弩の射手たちからは離れたところに。 (おれはやつらみんなを憎む。人殺しだから。 それのことはずーと以前からわかっていた。) 彼は、他界した日に亡くなった。 これだけだ。それにしてもなんて立派な言葉だろう。 「ところで、このゲートルはわたしに残しておいてください。 というのは、かつて聖マルタンや聖ジョルジュが そうしたように わたしが馬で天国にいくことになれば、 わたしはそれでいつでもでかけることができます。 革籠手と短剣を置いていきます。 というのは、これで、自分の身を守る道具は もうなくなるからです。 待ってください。わたしを 混乱させようというのですか?」 神に告白しよう、聖母マリアや 諸聖人へは後にするとして。 そう、おれは五体健全なまま、 すべてが好調とおもえるうちに死ぬ。 恐れとひどい寒さのせいで震えているほかは 悪いところはない。 それと、この自然の五感、いや五百*のせいで.. *cens(感覚、百)の地口 身代金五百エキュか、盗まないとしたら、どこで手にいれられるのだ? 五百なんて一度に見たことがない、 金貨でも、ばら銭でも。 無駄だろうが、告白してみよう、 そんな金一度に見たことがありません。 おれの死に至る七つの大罪に関しては 軽くするようにしてください。 あまりにも多く背負いすぎています。 そいつらをおれの胴着と共に脱ぎ捨てたい。 復活祭までは待つべきだったかも。 だが、清算のときは来てしまった。 信仰の第一の掟によると、 唯一の神を信じなければならない、 (信じるべきは*飲みに行っての *croire (信ずる) と croitre(増える)の地口 増え続ける飲み代でないのはいうまでもない): 飲み屋にいる時ほど信仰心が増す 場所にいたことはない。 このような不如意の時におたすけください。 逃がしてはくれないでしょう? 逃げはしません。 ああ、おれは死んだんだ、それとも... おれは処女のように 素直で、おとなしいんだ。 それにしても、第二の掟は? いたずらに神を誹るなかれか。 いたずらにそうしたんじゃない、 良き騎兵のように、きちんとやったんだ。 ののしったりしないと、敵は恐がらないんだから。 第三の掟は夏でも冬でも 祭りごとをおこなえと、 命じ、要請し、警告し、説諭している。 おれは年中いつでも祭りのように馬鹿騒ぎしている、 この点は嘘偽り無し。 そして、第四の掟は 父母を敬えと。 おれは父をうやまってきた。 要するに生まれは卑しいかしれないが、 その点については、 おれはりっぱな紳士だ。 後生だから、わが友よ、 アーメンを言うときまで、待ってくれ!お慈悲を! 弩の弦を高く持ち上げて、 矢がおれを傷つけないように弩の弦をを止めてくれ。 同じく、畜生、続いて五番目の掟を 言うぞ。 人を殺してはならないと はっきりと殺人を禁止している。 ああ、わが弩の殿よ、 この掟を守ってください。 わたしのことですが、誓って、 鶏より他には殺したことはありません。 第六の掟は 他人のものを盗むなと命じています。 そんなことをしたことはありません、 だって、どんなところであろうと 盗む暇なんかなかったんだから。 似つかわしい場所は結構あるけれども。 この点、悪事をはたらいてはいない。 もし現行犯で捕まったとしても、 運が悪かったと神も認めてくださるはず。 (後ろから案山子を支えていた者が手を離し、案山子は倒れる) ああ、殿、倒れられましたね! なんてことだ、誰が突き倒したのです。 言ってください。わたしじゃないですよ。 本当です。もしそうならば悪魔にさらわれてもよい。 そのことについて、教えてください。この界隈の人たちに 知らせに行きますから。殿。 あなたが、明日か明日あたり、 何か余計なことを言われないように。 要するに、手をお出しください、 起きあがるのを助けましょう。 だけど、わたしには危害を加えないでください。 あなたの不運には同情します。 (この時義勇射手兵は、それが人間ではなく、案山子であることに気づく) 畜生、だまされたか。 きゃつは足も手もない。動けない。 畜生、着物だけだ、なんて事だ、 藁が詰まっているだけじゃないか。 これはなんだ。馬鹿にされた。 戦士だと思っていたなんて。 おまえをここに置いたやつは 四日熱にでもかかるがいい。 そいつを今まで経験した以上に 痛いめにあわせてやろう。 誰かおれをあざ笑おうてわけかい。 聖ピエールに誓って、それは 麻でできたただの案山子じゃないか、 風で倒れたんだ。 畜生、この剣で、 突き刺さしてやる。 だけど、布地が破れてしまったら、 大損害だ。 かたとしておまえを連れて行く、 いずれにしろ、戦闘のかたとしてだ。 ようするに、おれの戦利品だ。 戦争でかちとったのだ。 ピエール、おまえは馬鹿にされたんだぞ。 祝福なんてくそくらえ。 おれがおまえの武勇伝を知ってたら、 すばやく攻撃してただろう。 おれはおまえをすぐ打ち倒しただろう。 そう、どんなに恐くてもだ。 どうかこれらをすべて持って 家に帰れますように。 なんて重いんだ。 藁を沢山食らっている。後ろに倒れそうだ。 女の手じゃあ、ここから 運ぶことはできまい。 観客の皆様方、神さまによろしく言っときますよ。 もし、だれかに、義勇射手兵は どうしたかと聞かれたら、 まだ死んではいない、 短剣と角笛をちゃんと持っていると言ってやってください。 そして、まもなく戻ってくると。 さらば、給金*をもらいにいこう。 *reliefは俸給だが、ここでは、観客から募る金。
(注)翻訳する中で、ヴィヨン詩と共通する点で気づいた箇所を若干あげていくにとどめよう。
(一)「射手兵」のフランス語はarchierである。archier(現代表記ではarcher)という語は、ヴィヨンの『遺言書』の一一二七行と一二四九行に出てくる。前者のarchierは、シャンピオンの言によると、市民的な国民軍であり、「雇われて兵籍にはいった公人・役人」で、課税免除の特典をえているわけで、ヴィヨン詩の舞台がしばしばパリであるように、パリの「義勇射手兵」とおもわれる。ただ、組織もいわゆる「義勇射手兵」より古く、パリの治安など独特な役割をしていたようだ。そのため、ヴィヨンから皮肉られることになる。遺贈の品を通じて、風刺をはたらかせるのは、ヴィヨン作品の基本構造であるが、ここでは、ヴィヨンは
ジャン・リュウ大尉に
またその部下、射手兵の面々に
狼の首六個を遺贈する
というように、とても食えるものではない肉を遺贈している。
後者のarchierは、酒飲みのコタールを風刺する際に使われている。
だれにもひけをとらぬ酒飲み
という具合に、下級兵士はしばしば酒飲みであったせいか、酒飲み(buveur)の意味で使われている。
(二)「要するに、ここにいる子供のように/かわいかった。」の詩句には『遺言書』の五三二行の、年老いた女が嘆く
わたしらだって、昔はかわいかった
が直接に、そして自らの失った青春を惜しむ『遺言書』のさまざまな詩句が対応する。
(三)アンジェのライオン亭と酒場の名前が出てきている。アンジェはヴィヨン詩にかかわり深い地名である(angier/engierには、動詞として女を抱くという意味もある)が、なによりもヴィヨンの酒場志向を思い出させる。
(四)「きん玉」もヴィヨン詩には登場する。『遺言書』の二〇〇二行の
きん玉に誓って
とある。『隠語によるバラード』では、色々な意味の位相で頻出する。ただ、これはヴィヨンだけの特殊性とはいいきれない。そういう言葉を臆面もなく使う時代である。そして、両者とも、庶民的な作品である。
(五)item がでてくる。「同じく、畜生、続いて五番目の掟を/言うぞ。」の「同じく」の箇所である。遺言を基調としたヴィヨン作品にitem(同じく、一つ)がでてくるのは、ともかく、『バニョレの義勇射手兵』にもでてくるのである。
(六)「墓碑銘」。墓碑銘は、古代におおいに栄えたが、中世においては、、大人物のような場合をのぞき、一般には消えていた。十一世紀になって戻ってくる。墓碑銘は、中世の人びとにとって匿名性から脱出し、自らの証を表現する手段となるわけであるが、ヴィヨンもちゃんと自ら作った「墓碑銘」を書いてほしいと言っている。『遺言書』の一八八四行以下が、ヴィヨンの「墓碑銘」である。(『絞首罪人のバラード』ともよばれるバラード形式の『ヴィヨン墓碑銘』は性質をやや異とする。)
ここに、この階上に眠るのは
愛の神により 弓矢にて殺された
貧しき学徒
名をフランソワ・ヴィヨンという
(七)「そう、おれは五体健全なまま/すべてが好調とおもえるうちに死ぬ。」に対応するのが、『形見』四十七行の
そう、五体健全なまま、おれは死ぬ
と、つれない女に言う言葉である。
(八)ヴィヨン詩は諺の利用、そして作品中の詩句が諺的な表現になっているという点が顕著であるが、『バニョレの義勇射手兵』の「藁が詰まっているだけじゃないか。」も、その後、外見ほどでも無い人に使われる諺的表現になった。諺の利用は、「口数の少ないものが褒められるってわけ。」などにも現れている。
(九)「四日熱にでもかかるがいい」。『バニョレの義勇射手兵』では、la fievre quartaineと、ヴィヨンでは『遺言書』一一〇一行に、les fievres quartes と出てくるが、これは、「間歇熱」とも訳され、なか二日おいて発熱し、中世では非常におそれられた。そしてこれは、呪いの表現として十七世紀ごろまで使われた。
その他、語彙の共通点などをあげれば、gaige(身代金、質草)、poise(重さがある)等々、適当にあるが、表現や語彙に類似点があるからといって、そんな断片的なことで『バニョレの義勇射手兵』の作者がヴィヨンだというつもりはない。その時代の表現というものがあるのである。
ヴィヨンの生きていた十五世紀は、 ファルス(笑劇)、独白劇などの喜劇、聖史劇などの宗教劇などいわゆる中世演劇の黄金時代であった。特に、上演に四日を要するグレバンの宗教劇『受難の聖史劇』(一四五〇年頃)は、天地創造からキリストの誕生、復活と聖霊降誕に至る、長大な作品であり、その後それをこえる、上演十日に渡る作品もつくられたりした。また、ヴィヨンの生まれた年に火刑にあったジャンヌ・ダルクに取材した世俗聖史劇もつくられたりした。そして、中世喜劇の代表作であり、のちのモリエールの喜劇に道を開いたともいえるファルスの『ピエール・パトラン先生』(一四六五年頃)もつくられた。その当時すでに出来上がっていたヴィヨン=詐欺師というまことしやかな図式もあって、その詐欺にかかわるテーマなどにより、その作品がヴィヨン作と思われていた時代もあった。そして、ファルス自体も面白いテーマである。日本の狂言に似た簡潔な形式をもつ、日常生活の中に展開する風刺的な作品であるファルスについても触れたい思いもある。とくに、ぼくの大好きな『洗濯桶』のファルス、『メートル・ミマン』のファルスなどは、前者は、いつも女房のいいなりになっていた夫が、食事の支度をはじめこれこれをしろと女房の命令の書かれている紙をたてに、大きな洗濯桶におちた女房を前にして、この紙には助けろなどとは書かれていないと言って溜飲をさげる話であり、後者は、ラテン語を勉強し過ぎてフランス語をわすれてしまった秀才の学生が、恋人の愛情こもった淫らな言葉によってフランス語を思い出すといった話である。これらは一度はふれてみたいファルスである。
さて、『バニョレの義勇射手兵』であるが、 かつてはヴィヨン作と思われていたこともあった。演劇の形式としては、「独白劇」Monologues , Monologues Dramatiquesである。いわゆる「一人芝居」である。その前身としては、「陽気な説教劇」Sermons joyeuxがある。「陽気な説教劇」は説教のパロディが、演劇として次第に独立したジャンルになっていったものである。たとえば、「鰊聖者」Saint Harengは、聖ロランSaint Laurentをもじっていて、聖ロランが殉教者として火刑にあったように、鰊も焼かれて食べられることになる。その間の事情を宗教的な用語を使いながら面白おかしくかたるのである。
「独白劇」は、いくつかのテーマにわけることができる。まず、恋のテーマ、恋の苦しみ、なかんずく女の不実をあつかうもの、そして、山師や女中や酒場の亭主や召使いなどのさまざまな職業のひとびとがおのれの才覚を誇ることなどをテーマにしたもの、また、ローマ喜劇以来の伝統となっている「ほらふき兵士」soldat fanfaronを扱ったものなどに大別できる。『バニョレの義勇射手兵』はいわゆる実力はないくせに変に自分の武勲を誇る「ほらふき兵士」を扱ったもので、自慢話が滑稽な様相を示すのは、どの時代でもありうることだが、この全貌はこの翻訳を通読することで明らかになるはずである。
ヴィヨンの一四六三年の死刑減刑、そしてパリ追放の後の生きざまは、 本当のところはわかっていない。一般にはその後長くは生きてはいないということになっている。しかし、伝聞によるものか、純粋な創作によるものか、奇しくも彼よりおよそ百年後のラブレーの作品のなかにヴィヨンのその後を見ることができるのである。たとえば、『第四の書 パンタグリュエル物語』(十三章)では、老年に達したヴィヨンが、ポワトゥー地方のサン・メクサンの修道院にいて、受難劇を組織しようとした話や、『第四の書 パンタグリュエル物語』(六十七章)でイギリス王を脅かした話とともに、ヴィヨンの有名な『四行詩』が異文の形で引用されていたり、『第二の書 パンタグリュエル物語』(三十章)で先ほどふれた地獄のヴィヨンが登場する場面や、『第二の書 パンタグリュエル物語』(十四章)で「去年の雪いまいずこ」のという有名な詩句が引用されたり、ラブレーはその作品で合計四回にわたってヴィヨンにふれている。それほど、ラブレーにはヴィヨンは関心のある存在であったのである。
『バニョレの義勇射手兵』の作者はヴィヨンなのだろうか? このことは、百年以上まえから否定されている。ただし、ヴィヨンが演劇の作品を残していてもおかしくはないことは、数多くの研究者が言及していることである。ヴィヨンが実際に演劇活動をしていたかどうかを証言する直接の史料はないが、彼の『遺言書』の百六章や「教訓のバラード」、「許しをこうバラード」や『雑詩』の『手紙のバラード』に、役者たちのことが触れられていて、彼の放浪時代に旅役者の仲間に加わっていた可能性があることは数多くの研究者が触れていることである。また何よりもパリ大学宗法学部の学生で、その後代書屋の手伝いをしていたことなどから、風刺的な「阿呆劇」を作って上演していたバゾッシュたち(当時の裁判所の書記官たち)の仲間になっていたことは十分考えられることである。どういう経緯かわからないが、ラブレーがポワトゥー地方で演劇活動をしているヴィヨンにふれていることは先ほど書いた。
『バニョレの義勇射手兵』がヴィヨンの作品とされたのは一五三二年に出版されたガイヨ・ド・プレGaillot de Preの「ヴィヨン作品集」に収録されたからに他ならない。他の判本もそれをまねて、『バニョレの義勇射手兵』は「ヴィヨン作品集」に収録されることになった。ただ、クレマン・マロは慎重でガイヨ・ド・プレ版のすぐあとに出版した彼の編集になる「ヴィヨン作品集」には『バニョレの義勇射手兵』を収録してはいない。
ただ、その下地はなかったわけではない。ヴィヨンの死後と思われる時期に、これまたヴィヨンの手がはいっているとも思われていた『メートル・フランソワ・ヴィヨンとその仲間たちによる無銭饗宴』などがあらわれ、陽気で、お道化ものの、ふざけ男の、大酒のみの、かっぱらいの親方の、といったヴィヨン像ができあがっていたのである。ヴィヨンが『バニョレの義勇射手兵』の作者であるというのは、その延長にある。そして、「泣きながら笑う」といったヴィヨンの世界は、『バニョレの義勇射手兵』にもあり、ヴィヨン作と強引に言い張ることはないが、もしそうであってもおかしくないほどの作品にはなっている。
『バニョレの義勇射手兵』はヴィヨン作品ではないと表明されるのは、資料的には、一七二三年のアントワーヌ・ユルバン・クートリエ Antoine Urbain Coustelier書葎の「ヴィヨン作品集」において、「ヴィヨン作とされている作品」として掲載されたのが最初のようである。はっきりと否定したのは、一八七七年ヴィヨン学の大家、ロニヨンが最初である。彼によると、『バニョレの義勇射手兵』はヴィヨンのものではない。すでにガイヨ・デュ・プレ版の正式なタイトル
Les oeuvres de maistre Francoy Villon
Le monologue du franc archier
Le Dyalogue des seigneurs de Mallepay & Baillevent
にも、Les oeuvres de maistre Francoy Villon「ヴィヨン作品集」とLe monologue du franc archier「義勇射手兵の独白劇」ははっきりと区別されているというわけである。同じくヴィヨン作品とされてきたLe Dyalogue des seigneurs de Mallepay & Baillevent「文無しとほら吹きの対話劇」も同じ理由ではずされる。
ただし、『バニョレの義勇射手兵』はその後しばらくは「ヴィヨン作品集」に収録される機会も多かった。たとえば、流布本とも、学習本ともいえる、古いフラマリオン版の『ヴィヨン作品集』(刊行日付なし。ぼくの手元にあるのは、印刷日は一九二六年九月となっている。)には、「ヴィヨン作とされている詩」Poesies attribuees a Villonとして、ロンデル(ロンドー)が十七編、バラードが十一編と 『バニョレの義勇射手兵』、『文無しとほら吹きの対話劇』、『フランソワ・ヴィヨンとその仲間たちによる無銭饗宴』 が収録されている。また、古いガルニエ版(手持ちの本には刊行日付なしだが、R. D. PeckhamのBibliographieによると一八九二年−一九二九年に何回か印刷された。)も大体同じ構成になっている。そして、その編者ルイ・モランは「確かに『バニョレの義勇射手兵』と『文無しとほら吹きの対話劇』は同じ作者のものではない。どちらがヴィヨンのものかを選ばなければならないとしたら、ためらわず前者を選ぶ。実際、証拠はないが。」とはしがきで述べている。
現在普通に入手できる「ヴィヨン作品集」には、それらは収録されてはいない。偽書の疑いがあるとされている 『隠語によるバラード』 が、デュフルネの編集になる何冊かの「ヴィヨン作品集」やガルニエ版、リーブル・ドゥ・ポッシュ版の「ヴィヨン作品集」などに、収録され続けているのを思うと、時代を感じてしまう。ヴィヨン研究書にも『バニョレの義勇射手兵』が言及されることは、ほとんどない。ただ、中世演劇の研究書には、「独白劇」を代表する作品として、中世喜劇の代表作の一つとして必ず言及され続けてはいるのだが。
義勇射手兵とは、そして『バニョ レの義勇射手兵』はいつ、誰が? 「義勇射手兵」Franc ArcherのFrancは「自由」の意味もあが、ここでは租税の義務をまぬがれている(租税から解き放たれている)ことを意味する。したがって「免税射手兵」とも訳し得る(実体をいうと、「民兵」、「歩兵軍団」である)。そういった意味では「義勇射手兵」は正確な訳ではない。ただ、ほかに良い訳も見つからないことと、反語的な響きもあり、従来使われているこの「義勇」の訳を使っておく。義勇(免税)射手兵軍団は、イギリスとの百年戦争の末期、一四四八年に、シャルル七世(ジャンヌ・ダルクに救われた王である)が、創設したもので、数年前に創設された常備軍たる騎士軍団に対して、歩兵軍団で、同時に地方の秩序維持を目的としている。一種の民兵である。五十軒に一人、射手兵をださなければならない。戦争の無いときは、自分の家にいる。戦争のない時は俸給はもらえないが、租税を免除される。いざという時にははせ参じて、一月あたり四フランの俸給をもらうことになる。田舎国民軍ともいえる義勇射手兵軍団は、初期はイギリス軍を追い払ったり、フランスに大いに貢献したが、戦争が終わるとしだいに、規律を失い、威信を失うことになる。租税免除といっても、その負担は町や村にかかるのであり、人気のない存在となっていった。職務を逸脱して、略奪にはしる者もでてきた。ついに、ルイ十一世は、一四八〇年に、義勇射手兵軍団を廃止することになる。その後また、フランソワ一世の時代に再興されるが、長続きしなかった。
『バニョレの義勇射手兵』には、具体的な戦闘の場所が語られるが、それらの地名などから、一四六八年と一四八〇年の間に作られたと思われる。また、バニョレがパリ近郊の村であることから、作者はわからないが、すくなくともパリ地方出身の人であると思われている。そして何よりも、ヴィヨンと同じように民衆の悲喜劇を感じとっていた人である。
テキスト
『バニョレの義勇射手兵』の翻訳の底本としては、
L. Polak, LE FRANC ARCHIER DE BAIGNOLLET, Droz,1966
他参照したテキストは、
E. Picot et C. Nypor, Nouveau recuil de Farces francaises des XVe et XVIe siecle, Paris,1880 (Slatkine Reprints, 1968)
Paul Lacroix, Oeuvres de Francois Villon, Flammarion, 1926
M.-L. Moland, Oeuvres completes de Francois Villon, Garnier,s.d.
現代フランス語訳としては、
G. Gassier, Anthologie du Theatre du Moyen Age, Delagrave,1925
C.-A. Chevallier, Theatre comique du Moyen Age, 10/18, 1973
(初出、1993.9.1 静岡大学教養部研究報告)
解説は配列を変え、記述を簡略化し、フランス語のアクサンも文字化けを避け省略している。
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(開設:1997.1.1)