準備中です。 ヴィヨン年譜 1431? パリに生まれる(『遺言書』の記述から推定。この年北仏ルアンで、ジャンヌ・ダルク
とりあえず、簡単な年譜だけ掲載します。
火刑に処せられる。) <逆向きの> 聖ブノワ共同信徒団の教会附司祭ギヨーム・ド・ヴィヨンに養育される。 1437 ジャンヌ・ダルクの働きでやっと名実ともに国王となったシャルル七世パリに入城。
(百年戦争終結へと向かう。) 1439 秋と冬、狼がパリに侵入。 1440 パリ、黒死病(ペスト)猛威を振う。 1440 追剥ぎ(エコルスール)の一隊がパリに迫る。 1443 パリの人フランシスクス・ド・モンコルビエの名でパリ大学文芸学部に登録。 1444 (この年に限らず、しばしば)パリ大学ストライキ。 1449 パリ大学の得業士(バシュリエ)に。 1451-2(3) 悪魔の屁事件(「悪魔の屁」という境界石をパリ大学の学生が持ち去り、
当局ともめる)。 1452 文学士(リサンシエ)、文学修士に。その後《多分》宗法学部へ。 サン・ジャック塔辺りに多くあった代書屋で、書写生を?(作品に法律用語多し) 1453 (英仏間の百年戦争終結。 一方、コンスタンチノープルが、トルコの手に落ち、
東ローマ帝国滅亡。一般的にはこの年を中世の終りの年とする。しかし、イタリア
ではともかく、フランスではそうとも言えない。いずれにしろ、歴史は重層的であり
中世的要素は簡単には消えない。) 1455.6.5 ささいな喧嘩から、不良の司祭フィリップ・セルモワーズを殺傷 。 フィリップ・セルモワーズ、「許す」といって死ぬ。 ムートンという偽名を使い、フーケという理髪師の手当てをうける。 アンジューへ逃亡? 1456.1 二通の 国王の赦免状をえて、パリへ帰る。 1456.12. クリスマスの前夜、 パリ大学の一翼を担うコレージュ・ド・ナバールに侵入。 コラン・ド・カイユーほか五名(ギー・タバリも)で、500 エキュ盗む。 1456 暮れ~57春 逃走 アンジェへ? このころ『形見分け』作成。 1457.3 事件発覚。 1458.5 共犯者、ギー・タバリ逮捕。 1458.6 ギー・タバリの自供。 1457~61 大放浪。 ロアール河沿いの地方。 盗賊団コキヤール党のために『隠語によるバラード』作成? 大公シャルル・ドルレアンと邂逅? ブロア詩会。 『雑詩』の一部、『遺言書』に挿入されるバラードなどを作る。 旅芸人の仲間に? 1460 かつての仲間、コラン・ド・カイユー別の理由で処刑される。 1461.夏 『遺言書』によるとマン・シュル・ロワールの宗法牢獄に入獄。 1461.10 ルイ十一世(シャルル七世の息子、シャルル七世の死後国王に)巡幸。 マン・シュル・ロワール通過の際、大恩赦があり釈放される 。 1461~62 パリのどこか、ないしパリ郊外にて『遺言書』作成。 また、1463年のパリ出立までに、『雑詩』の残りの部分作成。 1462.11 ある盗みに関連して、シャトレに監禁。 釈放(ナバール学寮の分け前120 エキュを三年間に年賦償還という附帯条件)。 釈放数日後 友達の刃傷沙汰に巻き込まれ、またシャトレに監禁。 シャトレで水攻めの拷問。 絞首刑の宣告。高等法院へ上告。 1463.1.5 死一等を免じられる。パリより十年間追放の刑。 パリ出立。その後、行方杳として知れず。 1468 養い親、ギヨーム・ド・ヴィヨン死去。 1489 パリのピエール・ルヴェ書肆にて『ヴィヨン詩集』刊行される。 1533 詩人マロによる版本。 1500年以前にすくなくとも9版、1553年以前に20版以上再版される。 ヴィヨンについての誤解が、既に始まっている。ふざけ好きのヴィヨンの一面
(それも重要な要素だが)だけが強調された『メートル・ヴィヨンの無銭飲食』
といった民衆本が1500年ごろ出版されたりしている。 その後:17世紀にボワローの讃はあったものの、一般的には、誤解・無視の時期が続く。
近代抒情詩の先駆者としての、本格的な復活は19世紀を待たねばならない。
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