ヴィヨン詩のテーマは色々あるが、生の厳しさが人びとに直接的に迫っていた中世に特有のテーマに、「運命」(fortune)と「死」がある。もちろん、人間と生まれた以上は、現在の我々も重く引きずっているテーマでもある。中世には、運命は「運命の女神」(Fortune)としてあらわれ、その気紛れに人々は翻弄された。死は、「十五世紀という時代におけるほど、人びとの心に死の思想が重くのしかぶさり、強烈な印象を与えた時代はなかった。『死を思え(メメント・モリ)』の叫びが、生のあらゆる局面に、とぎれることなくひびきわたっていた。」と、ホイジンガが『中世の秋』で述べているように大きなテーマである。「運命」、「運命の女神」のテーマは死のテーマと表裏の関係にある。しかし、ここでは「運命」、「運命の女神」にしぼって論をすすめてゆくことにする。
「運命の女神」は、もともとギリシア・ローマ時代の神であった。ローマ帝国が滅び、多くのギリシア・ローマ時代の神が死んだのちも、現実的な、そして絶対的な力を持ちながら、中世まで生き延びた。いや、中世になって、その「女の盛り」を狂おしいほど発揮しためずらしい例である。
十五世紀の詩人ヴィヨン(1431?-1463?)の先達の一人に、十三世紀の詩人アダン・ド・ラ・アール(1290年没)がいる。ヴィヨンがどれほどの影響を受けたかはっきりとはわかっていないが、少なくとも形の上ではヴィヨンの『形見分け』は、つれない女に未練を残しながら別れると言う意味では、北仏の町アラスの詩人たち(アダン・ド・ラ・アールもその一人である) 以来の「別れの歌」の伝統につながるものであり、また『遺言』の392行の「風の吹くまま 運ばれて」は、人生の空しさを表すことわざとして当時よく使われたのであるが、すでにアダン・ド・ラ・アールの『葉陰の劇』Jeu de la feuille (1276年頃)にもでてきているのである。その『葉陰の劇』は、アラスの町の市民たちの生活を生き生きと描いている世俗劇であるが、「運命の女神」については、つぎのような形で出てくる。
舞台に「運命の女神の車輪」が描かれており、その車輪の上に、アラスの名士たちの顔の絵がはりつけられている。そこで、妖精の国の王のメッセンジャーであるがクロックソが、「あの車輪の上に見えるものは何でしょうか?」と妖精のモルグに訊く。モルグは答える。「車輪をつかんでいる女の人は、/わたしたちの仲間なの。/あのひと、生まれた時から、/おしでつんぼでめくらなの。」クロックソはきく。「何て名前?」モルグは答える。「「運命の女神」(Fortune)て名よ。/みんなは彼女しだいなの、/彼女は全世界を手にしているのよ。/今日はあるものを貧乏にしておくかといえば、/明日は金持ちにしたりするの。/誰を有利にあつかうはあのひと自身もわかってないの。/だから、誰でも今は高い所に、安定した場所にいても、/彼女を信頼するわけにはいかないの。/だって、あのひとがその車輪を回すと、/ずっと下におりなきゃならいってわけ。」
これが、中世の一般の人々の「運命の女神」に関しての知識である。当時の人たちはヴィヨンを含めて、「運命の女神」の諸相を歴史的に図像的に文献的に深く、複雑に研究する碩学ではなかったのである。暴力的とも言える「運命の女神」の圧倒的な力に、困惑していたのであり、幸運はめったには訪れようとはしないけれど、できれば幸運を授かりたいと思っていたのである。その彼らの心を感じようとする想像力が重要なのである。
中世において理解されていた「運命の女神」を簡単にまとめてみる。運命の女神は、二つの顔をもっている。美しい(やさしい)顔と醜い(恐ろしい)顔である。具体的には、顔の半分が黒く、片方が白かったりする。また、一方の目で泣き、一方の目で笑うのである。(『雑詩』の「ブロア詩会のバラード」の詩句の「泣きながらわたしは笑う」が思いだされる。いわゆる、ヴィヨンの矛盾した生を要約した詩句としてよく引用される詩句である。)運命の女神は矛盾した性格を示す存在である。気分によって、やさしくなったり、不機嫌になったりする。「運命の女神」はしばしば、盲目である。ないしは、目隠しをされている。後者の方が、多いようであるが、いずれにしろ、その故に「運命の女神」は、人の真価をきちんと考慮にいれるということがが出来ない。対象とする人間をきちんと見ることなしに、ある判断をするのである。判断をされる側はたまったものではない。運命の女神はつぼんぼである。相手の言うことを聞こうとしない。そのくせ雄弁である。(『葉陰の劇』のように、おしである場合もある。その場合は、だまって運命の輪を回し続けることになる。それはそれで、始末におえない。)
「運命の女神」はしばしば、ことわざにもあらわれる「機会神」とも混同される。今でもよく使われることわざに、「機会(Occasion) は禿である」がある。機会は、前髪はあるが、後ろ髪はない。機会は出会った時つかまないと、つかめないという意味である。しかし、「運命の女神」は長い髪をしていることもあるので、「機会神」とは違う。捕まえても御しうるものでもないし、まず捕まえることさえできない。彼女自身神であり、神の代理人でもあるのだから。神の許しを得て、行動すると言う面もあるのである。性格は、おしなべて嫉妬深い。後述の『遺言』の「シャンソン」の「もし、運命の女神がおれを憎み続けるとすれば」が思われる。「運命の女神」は移り気である。実に気紛れで、はっきりした考えなどないにひとしい。気紛れに人の運命を左右する。
そのくせ、「運命の女神」の力は強力である。人の生(つまり、その運命)は彼女の「運命の車輪」の上にはりつけられ、彼女が「運命の車輪」を回すたびに、上がったり、下がったりする。たまったものではない。輪は回る、回り続ける。だれも運命の輪を止めることができない。「運命の女神」によって引き起こされた悲劇は数知れない。
歴史も運命の輪の中にあった。たとえば、あとでも触れる、『遺言』に登場するヴィヨンの同時代人豪商ジャック・クールの浮沈の人生も「運命の車輪」のなせるわざを象徴していると言われた。また、栄華を誇ったブルゴーニュ公国の十五世紀後半における急激な消滅について、モーリス・キーンの『ヨーロッパ中世史』は次のような説明がある。「四十年にもわたってヨーロッパ強国の一つと見られていたこの公国が、領主の死によって一夜に分解してしまおうとは、何という不安定な状況にあったことか。十五世紀の著述家たちがしばしば「運命」のせいだと書いているのは驚くにあたらない──この不安定な時代にあっては、運命の車輪は、しばしば急回転を行ったのである。」
ところで、「運命の車輪」には、二つの面がある。上であろうが下であろうが、要するに絶えず変化すること自体が問題で、その変化がどのような結果をもたらすかわからないといった、常に変転する不安定さへの不安が一つ。もう一つは、上ですでに言ったように、上がれば吉、さがれば凶といったある意味では単純、直截な一喜一憂的な認識である。しかし、大部分は、凶、憂を味わうことになる。
あとで引用する「ヴィヨンとヴィヨンの心の論争詩」では、星の影響力のことがでてくる。中世の人びとが、星の運命に対する影響力を信じていたことはまちがいない。その視点からみると、「運命の女神」は、実は「星」のもたらす「宿命(destin)」の代理執行者ということにもなりかねない。このあたり、つまり「運命の女神」と「宿命」の区別は、難しい。
ボエティウスの『哲学の慰め』(524年頃)は、獄中にあって、運命の激しい転変をなげく所からはじまり、その克服を試みようとする書であり、運命の考察には、基本的な文献となっている。ここでは深入りするのは避けるが、「第二巻」に、 「あなたは(運命)の回転する輪のはずみを押さえようとするのですか。とんでもないことです。もし止まりはじめたら、それは廻り合わせ(運命)であることをやめます。/運命の女神が右手で誇らしげに輪をめぐらし/エウリポスの潮の流れのように荒れ狂うとき、/長く畏怖された王たちを冷ややかにふみにじり、/敗れた者をなだめすかして伏せた顔を上げさせる。/彼女はあわれな人々の叫びに耳を貸すことも涙に/心を動かすこともしないばかりか、みずから招いた/嘆息を無情にもあざわらう。[...](渡辺義雄訳)」と、「運命の女神」、「運命の輪」の記述がある。また、「長く畏怖された王たちを冷ややかにふみにじり」は、後に触れるヴィヨンの「運命のバラード」のテーマと重なっている。
放浪学生の雰囲気を、酒場の雰囲気を、庶民の喜びと悲しみを伝えている『カルミナ・ブラーナ』(中世後半と言う以外は年代未詳)は同種の世界を描いたヴィヨン世界と共通点の多い俗歌謡集である。その中にも、「運命の女神」は出てくる。
「運命の女神は、その特質として車輪をもっている。その車輪の動きは人間の有為転変を象徴している。」と『カルミナ・ブラーナ』のフランス語訳の注にあるように、『カルミナ・ブラーナ』第十四番では、
「いつも気がかわり、不安定な「運命の女神」よ、/あなたの法廷や裁判官にはちゃんとした規則がない、/[…]/建設するかと思えば、破壊する「運命の女神」よ、/今まで褒め称えていた人たちを、この今になって見捨てる、/そして、逆に嫌悪していた人たちを、保護する、/いつもこのように、はっきり言ったことを裏切ろうとする、」と、その気紛れを嘆くより他しようがないのである。
ヴィヨン詩の場合を見てみよう。fortune, Fortune は、いわゆる「運命」という小文字ではじまる抽象名詞では二回、擬人化した、大文字ではじまる「運命の女神」の形では六回出てくる。(枚数の制約もあり、原文は省く。ただ、「運命」fortune、「運命の女神」Fortune に関わりのある語は、翻訳の中で、フランス語で挿入する。)
『雑詩』の「運命のバラード」は、「運命の女神」の恐ろしくて、雄弁的な面を表現している。まず、その詩を見てみよう。
「わたしはかつて学僧たちに運命(Fortune)と名付けられた女神である、/このわたしを、名も無き男ヴィヨンよ、/お前は、人殺し、破壊者と呼び、そう名付けた。/わたしは、お前より優れたものを、貧しさ故に、/つらい石膏窯の仕事に命を消耗させ、/石切場で石を掘らせるのだ、/お前が屈辱の中で生きているからといって、不平を言うことがあろうか?/お前一人だけではない、嘆くことはない。/わたしがかつて行った行為について、よく見るがよい、/多くのすぐれた男たちがわたしのせいで、死んで、固くなっていった、/よくわかっていよう、彼らに比べれば、お前は汚らしい下僕にも劣る。/心を静めて、不平を言うのをやめよ、/わたしの忠告に従い、すべてを心から受け入れよ、ヴィヨンよ!//今からはるか昔のことだが、/わたしは偉大な王たちに少々むきになってつぶしにかかった、/トロイ最後の王、プリアモスとその全軍団を殺した、/櫓も城砦の塔も城壁も何の役にもたたなかった。/カルタゴの王、ハンニバルもわたしの打撃を避けることができただろうか?/[…]/だから、フランソワよ、わたしの言うことを良く聞け、/もし天国の神の同意なくして、何かをしようと思えば、/お前にも、また他の誰にも、ぼろ着さえ残らないようにする事もできる、/というのは、わたしは、一つの悪行には、その十倍にして返すことになるのだ。/わたしの忠告に従い、すべてを心から受け入れよ、ヴィヨンよ!」
神話や聖書の登場人物を含め、歴史上残酷な死を向かえた人びとの死を、「運命の女神」はみずからがそそのかした結果だと、雄弁にかたる。「人殺し、破壊者」としての「運命の女神」である。たとえ、ヴィヨンが屈辱的な生き方をせざるをえないとしても、死なないだけましだというわけである。ある意味では、諦念の勧めである。
「運命」という言葉は直接でてこないが、『遺言』の三六節では、貧乏をなげいているヴィヨンにと、ヴィヨンの心は言って聞かせる。
「人間よ、そんなにひどく悲しむな、/そんなに苦しみをひきずるな!/財産を没収され死んでいった豪商のジャック・クールほどの富がなくても、/貧乏でも、ぼろをまとってでも、生きているほうがましだ、/かつては領主になりあがったわけだが、/いまでは豪華な墓の下で腐っていっている、それよりはましだ。」
ジャック・クールは、地中海での商売で莫大な富を手にいれ、当時の王、シャルル七世の大蔵卿までつとめたが、その富ゆえ讒言にあい、一四五三年に追放され、ギリシャのシオ島で、一四五六年に亡くなった。ヴィヨンの同時代人でもあったのだ。彼の、有為転変の激しさは、「運命の女神」の犠牲者の典型的な例と考えられていた。
「運命のバラード」に立ち戻る。運命の女神の唯一の弱点は、このバラードの「もし天国の神の同意なくして、何かをしようと思えば」にあるように、「神の同意なくしては」何もできないことになっている。一体、人々が運命の女神に翻弄されることを、神は同意しているのだろうか。神へ近づくための「試練」というのだろうか。「私の考えでは、運命の女神はとるに足らりないもので、/万物にやどるのは神の御意志なのです。」という発言(『中世文学における運命の女神』より引用)などがあるにはあるが、荒々しく、厳しい中世の現実の前では、一部の聖職者、また信仰によって何かを忘れようという人を除き、一般庶民にはむなしく響く発言でもある。
「運命の女神」は、『遺言』1784行に始まる「シャンソン」にもでてくる。
「ほとんど命をあきらめねばと思っていた/辛い牢獄から、帰ったときに、/もし、運命の女神(Fortune)がおれを憎み続けるとすれば、/女神は間違っていると思ってくれ。//[…]/もし、運命の女神が理不尽に満ちて、/ほんとに死んでおしまいと言うのなら、/神よ、おれの魂をさらってください、/天国に入れてください。」
デュフルネなどはこの「シャンソン」を『遺言』時代より前の『形見分け』に近い時代に作られたという。確かに、『遺言』はシンプルな展開の『形見分け』と違って、ヴィヨン作品の総決算といえるもので、あらゆる要素が渾然一体として、『形見分け』とはけた外れに違う、複雑な構成になっている。それまで書きためていたものを、取り込みながら、ヴィヨン一大詩歌集の様相も見せている。ある研究者は「詩歌におけるゴシック建築」にもたとえている。ただ、かつて書かれたものでも、『遺言』にとりこまれると、『遺言』の文脈の意味をおびることになる。
「ほとんど命をあきらめねばと思っていた/あの辛い牢獄から、帰ってきたときに」の「辛い牢獄」は、『形見分け』の文脈で読めば、つれない女がヴィヨンを陥れた「恋愛の牢獄」をあらわすことになる。「運命の女神」は相手の女ということになる。「運命の女神」のように気紛れな女であり、ヴィヨンを自由にあしらう女であるというわけである。『遺言』では、冒頭にもあるように、マン=シュール=ロワールの牢獄という、具体的な牢獄ということになる。恋愛の牢獄も辛いが、現実の牢獄はもっと辛い。そこでは、「運命の女神」は、「運命の女神」本来の姿をみせることになる。人間にとってどんな辛いことでも、平然と課する「運命の女神」の本来の姿である。
ただ、『遺言』では、このシャンソンはラシャ商人、ジャッケ・カルドンへの遺贈品ということであり、これこれの遺増品を贈ることでそれに贈られた人物を風刺することになる『遺言』では、ジャッケ・カルドンにも、ヴィヨンと同じ様な苛酷な生を望むということになるのであるが。
「運命の女神」は、『遺言』の「ロベール・デストゥートヴィルのためのバラード」にも「その上、しばしば怒りにかられる運命の女神(Fortune)のせいで、/悲しみがおれを襲うとき」と出てくる。「怒りにかられる運命の女神」というわけである。
『雑詩』の「マリ・ドルレアンにあてた書簡詩」では、「厳しい司法が追放し/運命の女神(Fortune)がなぎ倒す哀れな人々」と、「哀れな人々をなぎたおす」運命の女神が、同じく『雑詩』の「仲間たちへあてた書簡詩」には、「この流謫の地へ、神の許しを得たのか、/運命の女神(Fortune)がおれを送り込んだ」と、「この流謫の地」つまり、牢獄へと送り込んむ「運命の女神」が言及される。いずれにしろ、「仲間たちへあてた書簡詩」は仲間たちに、この牢獄から出ることができるように、「助けてくれ」と仲間たちに呼びかける詩の一節である。「神の許しを得たのか」という記述はすでに、「運命のバラード」で、触れたように、神の許しがなければ、何も出来ない「運命の女神」の限界を示している。
抽象名詞としての「運命」は『遺言』では、が、十七節から、二一節にかけて出てくる。アレキサンダー大王の統治時代、ディオメデスという男が、盗賊として、大王の前に連れてこられた。その男はありふれた海賊であった。「なぜ海で盗みをは働くのだ?」との大王の質問に、「なぜ盗人呼ばわりされるのですか? 小さな舟で海を荒し回るからですか?あんたのように、おれも大船団で武装できてたら、あんたのように、おれも皇帝ってことですかね」と答える。(十七〜十八)
十九 どうしろというんです? しょせん運命(fortune)のせいですよ、運命に対しては、本当に、どうしようもありません、/運命が、不当な境遇をおれに授けてくれたってわけですよ、/そのせいで、こんな振る舞いをすることになったのです、/とにかく、お許しください、/わかってください、よく言われているように、/貧しの中には誠実さは/宿らないと言うことを
二十 皇帝はディオメデスの言うことを/注意深く聞き、/「お前の運命(fortune)を不運(mauvaise)から幸運(bonne)へと/変えてやろう」と言った。/実際そのようにとりはからった。その後、ディオメデスは誰にも/くってかかったりすることはなく、誠実で立派な人になった、/これは、ローマの大学者と言われたヴァレリウスが、/真実のこととして伝えている。
二一 もし神が、もう一人の情に深い/アレキサンダー大王に、おれを合わせて、/その人が、おれを幸運(bon cueur)へと導いてくれ、/それなのに、悪事を続けるようなことがあれば、/おれは、火刑になり、灰になるよう自らを裁いてみせよう。/人は必要にかられて、道を誤り、/飢えれば狼も森からでてくる。」
ここでは「運命」は二カ所にでてくる。前者は、運命の女神の要素もあるが、ともに、普通の使い方の小文字の「運命」であり、特別に説明することもあるまい。ここで表現されているのは、自分の行動の結果、つまり自己の責任においておちいった絶望のどん底にいるヴィヨンの甘えである。その後、深い悔悟の情に変わっていくとはいえ。神にかわって皇帝が配慮してくれたら、運も変わるという意味では、ここでは変更不可能の運命の女神とは違った面の運命が表現されている。
「運命」(fortune)ではないが、同義語でもある、「運」(heur) は、「不運」(mal eur)という形で、『雑詩』にもでてくる。「ヴィヨンとヴィヨンの心の論争詩」である。翻訳では、〈 〉の中がヴィヨンのある意味では真面目な心である。それ以外は、矛盾をまるごとかかえこんだ、生き身のヴィヨンの発言である。
「──〈この苦しみはどこから来る?〉──おれの不運(mal eur)からさ、/不吉で知られる土星がおれにちょっとした運命の荷物をしょわせたとき、/不吉のしるしもついでにしょいこんでしまったと思う──〈馬鹿げた言いぐさだ、/おまえは自分の運命の主人なのだ、それなのに下僕だと思っている!/ソロモンが、その書物に書いていることを見ろよ、/「賢者は、星とそのおよぼす力に勝る力を持っている」と言っているのだ〉/──そんなこと何も信じないね、星の決めたままのおれさ/──〈何だって、そんなことを言う?〉──そうだ、これがわが信条さ」
ここでは、「不運」は、「不吉で知られる土星」などの星の影響、つまり今で言う「占星術」の領域の話になる。今更言うこともないであろうが、当時は人体のミクロコスモと、宇宙のマクロコスモに照応関係があると思われていた。ヴィヨンはこれを肯定する。ただし、「ヴィヨンの心」のほうは、「馬鹿げた言いぐさだ、/おまえは自分の運命の主人なのだ、それなのに下僕だと思っている!/ソロモンが、その書物に書いていることを見ろよ、/「賢者は、星とそのおよぼす力に勝る力を/持っている」と言っているのだ〉」と、自らの運命の開拓を勧めるのであるが、ヴィヨンは、受け入れようとはしない。しかし、「ヴィヨンの心」も、ある意味ではヴィヨンである、ヴィヨンの頭である。頭では運命をも乗り越えることができる人間の自由意志を理解している。しかし、抽象的な理論だけでは現実の生となると一筋縄ではいかないことを体験的に知っていヴィヨンでもある。
以上が、ヴィヨン詩(『遺言』、『雑詩』)の中に具体的に現れる「運命」、「運命の女神」の記述である。もちろん、具体的に「運命」、「運命の女神」という言葉がなくても、圧倒的な力をもった「運命」、「運命の女神」に(またここではふれないが「死」に、中世に遍在していた「死」に)翻弄されるヴィヨンの姿は、『遺言』の至る所に見られる。ただ、若書きの書ともいえる『形見分け』には、「おれは死ぬ」などとある意味では、いさぎよい台詞を吐きながら、「運命」、「運命の女神」の語は単語としてはでてこない。もし、たとえ出てきたとしても、「運命の女神」は「シャンソン」のところでふれたように、「自分をもてあそぶ女」という程度のことになるはずである。ある意味ではのんきな学生生活の延長にある『形見分け』の時代の後、ヴィヨンはパリを離れ、放浪をして、人生の辛酸をなめ尽くした。その中で、自分ではどうすることもできない、人生の可能性を秘めた若者のようには単純に「運命」を鼻でわらいとばすことのできない、「運命」、「運命の女神」の重さを感じはじめたはずである。
簡潔にまとめることが出来るでのであろうか。
佐藤輝夫氏は、ヴィヨンの運命観をまとめるかのように、『遺言』の「シャンソン」に触れた文章で「かつて彼は自分の置かれたあらゆる不幸が、ただ「運命」の盲目的な、気紛れな悪戯であるとして、ひたむきにその悪意を攻撃した。が、この詩の中に見られる恨みは、そういう攻撃や呪詛ではない。それは忍従を通してのそのあげく達した諦め、さらにその上に、人間をも「運命」それ自身をも支配するより高きもののプレシアンスに、全的に自己を一任するという祈りと放棄とが、そこに窺われる。」(『ヴィヨン詩研究』)と述べられておられる。私は、そうともいえるし、そんなに整理しきっていいのかなとも思える。
また、シチリアノが「運命の女神」の章(冒頭引用書)で結論しているように、「許しを望んでの祈りとともに、ヴィヨンは運命の女神の精神的牢獄──むしろ、自らの罪、自らの恥辱、そして、人間正義から作られた牢獄──から自らを解放したのであり、もっと穏やかな、多分もっと均衡のとてた掟を求めたのである。」という記述も、私はも一度同じように、そうともいえるし、そんなに整理しきっていいのかなとも言わざるをえない。われわれの知っている晩年のヴィヨンはまだ、三十歳を越えたばかりである。やがて、行方不明となるヴィヨンである。
たしかに、『遺言』の「聖母マリアへ祈るバラード」、や『雑詩』の「絞首罪人のバラード」など多くの詩に、高い宗教性も感じられる。祈りと放棄がある。しかし、その面だけに限定すると、それだけのヴィヨンであれば、もっと迫力のない、薄いものになっているはずである。ヴィヨンも、それだけのおれではないぞと言うかも知れない。若書きの『形見分け』の時代であれば、嘲笑・風刺だけのヴィヨンは考えられよう。しかし、『遺言』そして若い晩年の時代に入ったからといって、急に祈りと放棄オンリーのヴィヨンはどうも考えにくい。『遺言』にも表れているように、嘲笑・風刺はヴィヨンの身上である。「絞首罪人のバラード」など書きながら、案外舌を出していたかも知れない。ヴィヨンはしたたかである。
ヴィヨンの詩全体は、私には、常に回り続ける「運命の輪」の詩歌版のように思える。ヴィヨンの自身、またヴィヨンの詩には、最終的には、後悔と反省、祈りと放棄の比重が増すのは事実である。しかし、それは永遠の信仰へと、がっちりとかたまって身動きのとれない、信仰一筋の固定してしまった状態に陥ったことを示すとも思えない。「運命の車輪」はまわりつづけていて、その振動が、揺れが、彼にも伝わってきているはずだ。信仰が心を充分満たしてくれないままでも、現世をそして死をたくましく生きて行くのである。それが、ヴィヨンであり、矛盾をはらんだヴィヨン作品全体、それがヴィヨンなのである。そして、行方不明となるヴィヨンとともに、われわれの行方が問われるのである。 (この項完)
後書き
原稿枚数の制約もあり、読みにくいが、私の新訳の引用は改行なしにした。原文も引用する余裕がなかった。また文献紹介は別の機会とする。なお、原文と新訳は、私のインターネットのホームページにあるので、参照いただければ幸いです。
URL (http://www.ipcs.shizuoka.ac.jp/~ektsasa)
初出「豊橋科学技術大学紀要」1997.3
なお、上記論文はフロッピーによる紀要原稿提出時のテキストの再生である。校正時に若干変更を加えている。その点は今後訂正したい。
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