他選(自選ではない)『富士・まぼろしの鷹』の句



  ここでは、俳人の方々、そして俳句を作らないが読書習慣がある方々、有名無名を含め、メールや 手紙、ブログなどで『富士・まぼろしの鷹』の感想を寄せていただいた方々の手紙などで引用された句 をあつかう。その具体的な句は、必ずしも「選」を意識したものばかりではないが、やや大げさだが「他 選『富士・まぼろしの鷹』の句」としてまとめてみることにした。結構拡散しているが、それらは、こ れからのぼくの俳句生活において、発奮材料とともに反省材料ともなればと思ってのことである。  まず帯の選をしていただいた島田牙城さん(俳人、邑書林編集長、元俳誌「青」編集長)には、名を あげて感謝しておきたい。すべてはここから始まったのである。  帯正面に1句  まぼろしの鷹か凍湖の宙に消ゆ  帯裏面に次の12句   「富士百四十句」抄  牛たちは富士を仰がず春の風  万緑は富士山頂を攻めきれず  富士山を洗濯したる野分かな  縄とびや富士いま入るまた入る  破魔矢もていつしか富士をさしてゐる  異国よりきて滑落死富士は富士   「まぼろしの鷹」抄  牡蠣殻の山をこえきて牡蠣を食ふ  凧あがる無人島とぞ思ひしが  チユーリツプ地底明るくなりをるか  鶏鳴のやぶれかぶれや梅雨深し  山女美(は)しきよらの塩をふりて焼く  虫の音へ裏階段をおりてゆく  また、次の12句は、発表メディアがやや公式的な面もあると判断して先に掲載する。  立ち上がり尺取虫となりにけり (読売新聞朝刊、長谷川櫂「四季」2012.7.17.)  鶏舎なる首六百の暑さかな  (清水哲男「新・増殖する俳句歳時記」2012.7.23.)  秋風や屋上にある潦(にはたづみ)              (裏「週刊俳句」 相子智恵「月曜日の一句」2012.8.20.)  親も子も戦争知らずカンナ燃ゆ (静岡新聞朝刊 「大自在」2012.9.16.)  胸底のさびしき鬼へ豆をまく(静岡新聞朝刊、上杉省和「節分随想」 2013.2.4.)  自転車に春の空気を入れてみる (同上)  稜線にキスして富士の初日かな               (裏「週刊俳句」 関悦史「水曜日の一句」2013.6.5.)  (句集出版以前)  山葵田の水をうましと飲みたるよ (『地名俳句歳時記 5 東海』中央公論社 1987)  登呂といふ昔田圃の水すまし   (同上)  羽衣の松の海より黒揚羽     (『角川版ふるさと大歳時記3 甲信・東海』角川書店 1993)  フランスの闇フランスの螢追ふ (『角川版ふるさと大歳時記 別巻 世界大歳時記』角川書店 1995)         ☆   また、最近、次の句が去年(2014年)7月発行の『季語別鷹俳句集』にあるのを偶然書店で見つ  けた。「鷹」を2003年やめているが、「鷹」時代の句である。「鷹」のふところの深さをあらため  て感じた。  流れゆく薄つと立つ河童淵 (『季語別鷹俳句集』ふらんす堂、2014年「鷹創刊五十周年記念」) 以下、上記の句を含めて句集にのっている順に記してゆく。複数の方が触れられた句も適当にある。  「富士百四十句」 早蕨や天地一杯富士ひらく 水すでに春の音楽富士山河 牛たちは富士を仰がず春の風 春の富士裾野をゆけば靴が鳴る         さくやひめ 花盛り富士の天舞ふ咲耶姫 花吹雪富士はしずかに浮揚する 蚕(こ)のごとく富士は雲吐きまゆごもる 春夕べ海月のごとく富士浮かぶ 遠蛙富士五合目の灯がともる 震災後富士詠むジレンマ桜咲く 卒業や校歌にそびゆ富士の山 凧一つ夕陽を富士とともに浴び 富士消えて空よりしだれざくらかな 富士五合目アサギマダラようこそようこそ 富士の雪ながめてをれば春が来る 富士桜咲き満つ我が家にめざめけり 春雷や闇に一瞬若き富士 汗の中富士の裸を登りゆく 赤く灼け富士の筋肉盛上る   日本最高峰富士山剣ケ峰 炎天へ刃するどく剣ケ峰 蟻として富士山頂を目指すかな 雷神の喜び遊ぶ富士の闇   闇の中ご来光へ向けて 光の子ら登り来るなり富士山頂 とりあへず六根清浄富士登る 爺さんといつしかなりぬ富士登山 祭笛腰を浮かして富士の山 雲海や巨船のごとく富士すすむ 万緑は富士山頂を攻めきれず シヤツター街行く手大きく夏の富士 ニーチェ忌や超人富士は只管打坐 富士山を洗濯したる野分かな 菊の酒南山として富士を置く 富士一つ夢は無数よ星月夜 今年酒富士の水より生れけり 裏富士のとある月夜の人殺し 神の留守富士は出雲におもむかず 縄とびや富士いま入るまた入る 富士へ向け鷹放ちたるもののふよ 変人も奇人も見あぐ雪の富士 寒月や富士は凛たる雪女 雪を得て富士変容のはじまれり 一塊の大き静もり雪の富士  冬の日や呼吸している富士の影 さあ来いと両腕ひろげ寒の富士 梟の闇に太古の富士うかぶ 七五三富士の水湧く神の池 海底の海鼠は富士を夢想する 降る雪や見えねど富士を荘厳す 枯木立いつもは富士の見えぬ道 永遠が鷹として飛ぶ富士の空 枯菊や遥か墳墓のごとく富士 たましひや富士の空行く寒の月 光こそ命なりけり富士初日 稜線にキスして富士の初日かな 破魔矢もていつしか富士をさしてゐる スサノヲもゼウスも集へ富士火口 禁煙のぼくと煙を吐かぬ富士 富士樹海おれの前には道はない 戦争花嫁富士の写真が居間にある 竹林の一愚人なり富士仰ぐ 異国よりきて滑落死富士は富士 行く雲の影絵遊びや富士に龍   孫来る富士のあなたの都会より 大漁旗五彩はためく富士の海 影富士の先は我家のあたりかな 湧水や宇宙樹として富士聳ゆ フジヤマゲイシヤゲイシヤはつひに縁の無し 列車事故ホームで富士と過ごしけり 裏富士へうどんを食ひにいかないか 富士火口火の鳥飛ぶを誰も見ず    妻へ感謝することあまた この世にて会へてよかった君と富士  「まぼろしの鷹」 まぼろしの鷹か凍湖の宙に消ゆ 牡蠣殻の山をこえきて牡蠣を食ふ 雪山に火焚けば雪の香りけり 自転車に春の空気を入れてみる 牛の眼に青き血脈夏の河    インド ブツダ・ガヤ 成道の木 菩提樹の病葉一葉掌にうけぬ 階段の暗闇をおり木枯へ 年惜しむ登呂に畦あり畦あゆむ 山葵田の水をうましと飲みたるよ 首長き女五月の坂おり来 藤村の墓の青梅大きかり 荒梅雨の牛舎びつしり牛の鼻 大学の闇の深さよ青葉木菟 ひぐらしの林なかなかぬけきれず 草の実をつけ教壇にどもりをり ベランダのつひの一鉢紅葉づれり 鮟鱇の口の無念をまねてみる 亀鳴くや紙にて切りし指の先 自転車をとめて見てゐる夕牡丹 炎天の崖の上から会釈さる 広島の町見ゆる島泳ぐかな 秋風や屋上にある潦(にはたづみ) 冬菊を壺に挿す指吸ひたしよ 春焚火沖を向きたる顔ばかり 遠足の二手よりくる峠かな 荒梅雨のしづくまとひて教壇へ 握飯立って食ふなり大夏野 炎天となりゆく朝日昇りけり 流れゆく薄つと立つ河童淵                 広島のまつかな釣瓶落しかな 天高し無頼詩人のぞつき本 教授会半ばのわれの大くさめ うそ寒の五合の酒となりにけり (誤って、二箇所に出ています。一九八八年が正。) 藁屋根に湯気たちのぼる負喧かな 凧あがる無人島とぞ思ひしが 母の日とわからぬ母の笑顔かな フランスの闇フランスの螢追ふ 小諸なる町かたぶけて銀河かな サングラスはづし見てゐる山河かな 親も子も戦争知らずカンナ燃ゆ 用なくてのぼる踏台秋の暮 雨の日は雨の中ゆく遍路かな 日盛の瓦の上の雀かな 背中痒し痒し満月のぼりけり 遅参せり金木犀の香る中 天高し研究室の昼の酒 小春日やだらだら坂に倦んでゐる 富士へ鷹駿河日和と申すべし 蛸焼や明石にのぼる春の月 メーデーに行かず波頭を見て飽かず 廃線の駅の広場の秋祭 豊の秋餌を欲る家鴨したがへて 稲妻や丹塗剥げたる太柱 とりあへず落葉プールへ着水す あつさりと割れし胡桃を咎めけり 身に秘むや降圧剤の赤き粒 博学の酒徒と喰らふや零余子飯 人の死よ濡れて落葉の切通 啓蟄の螺旋階段のぼりけり 一の滝二の滝春のこだまかな 夕牡丹しづかに蕊へ誘はるる 大声で学生しかる寒さかな 時雨忌や近江の湖の狐雨      利休忌の椿豪奢に落ちにけり チユーリツプ地底明るくなりをるか 夏の河からすは死魚の目を穿つ 鶏舎なる首六百の暑さかな 蛍火よはるか昔の汽車の灯よ 豊年や蔵書を売りて本を買ふ 秋風や遊びたりない顔ばかり 学生は口論すべし懐手 銀漢や黒塊として富士の山 風邪ごころ遅刻の学生許しおく 枯木など振り向かずゐし昔かな 臍の上風渡るなり夏座敷 鶏鳴のやぶれかぶれや梅雨深し 真つ白きマストの断てり冬の富士 近道のいつか遠道春の暮 春の雷かうぐわん二つしかとあり 青蛙飛び込み田植終りけり つんどくの本崩れたる極暑かな あさがほの紫かをる一之町 いとけなき薄の揺れや今朝の秋 東海道いまいつせいの落葉かな   お神楽のまぐわひ空に日と月と カーニバル君の乳房は揺れに揺れ 青嵐モンロー消えて三十年 夕方は木犀の香にとりまかれ 全山の薄揺れゐる力かな 秋風やわが胸底の眼なし魚 放浪の心は老いず西行忌 青年の腋くろぐろと夏に入る 草いきれ少年のわれ遁走す 緑陰へ入りてうれしき眼かな しびとばな動かず列車動きけり たつぷりと酒あるけふの夜長かな  裏道が好き裏道の菊畑 氷山が俺の頭に頑とゐる 本すぐに紛るる書斎山眠る 購ひし土地の隣の竹の秋 新幹線桜吹雪に突入す われ男なんぢ女の良夜かな 天高し屋上にある駐車場 秋晴や鈍行にての三時間 ちっぽけと自分を言ふな帰り花 クラクシヨン強くならすな春の野ぞ 花みかん駿河に老いてゆくも良し 秋の暮考へすぎないやうにする 山女美(は)しきよらの塩をふりて焼く 冬晴へ放り投げたき心かな 山の子は挨拶上手桜咲く 連翹やきのふの怒り懐かしき   せつせつと苔も運びて鳥の恋 立ち上がり尺取虫となりにけり 蜻蛉とぶ真つ正面にモンブラン 現し身のほいと大根抜きにけり 胸底のさびしき鬼へ豆をまく 四方に鳴きどこにもゐないうぐひすよ 正面に黒き富士立つ噴井かな 郭公や甲斐に古り行くワイン蔵 秋の暮そこらあたりをひとめぐり 冬眠の蛇の鼓動の響く夜か   (註1) 古ひひな本家あつさりほろびけり 全身に受く渾身のさへづりを 茅の輪なる円き空気を抜けにけり 声かけて行くや花野の花たちへ 薄原地下こんこんと水行くか 落葉ふみ落葉の音の中にゐる 真輝く富士の山なり反省す たましひの桜吹雪となりにけり 鳴く虫に浄められゆく身体かな 虫の音へ裏階段をおりてゆく 初詣木の花咲耶姫さまへ 雪原のただよふ時ぞ夕ぐれは ぜんまいののの字のまなこひらきけり 春風の中でさけべば鵯の声 春風やふらここ一つゆれはじむ 蜘蛛の糸虹をはらみつゆんわりと 日向ぼこ一匹の蟻見失ふ 俳句史の死屍累々と晩夏かな   (註2) 夏草や一本の道輝けり 鷹の目の中の青空限りなし        (註1)  この句について、文末に、     なお次の句は、金子兜太の句と類似していると指摘する人もいないとは限らないと    ある時ハットした。     とりあえず参考句としておく。     森の中に住む自分なりに作った句であり、紹介したい句としてとりあげられた方に    はお礼を申しあげたい。        冬眠の蛇の鼓動の響く夜か        冬眠の蝮のほかは寝息なし (金子兜太)  と、書いたが、その後、蕪村に次の句があることに気づいたり、   蝮(うはばみ)の鼾(いびき)も合歓(ねむ)の葉陰哉   (『蕪村句集』) また、桂信子に   草の根の蛇の眠りにとどきけり などがあることを思えば、少しづつ位相の違う読み方で、無理に参考句にまわすこともないのかなと思 い、一応削除はしないことにした。ただし、註としてこの文章は残すこととする。    (註2) 俳句史の死屍累々と晩夏かな  は、複数の選があったが、説明をうかがいたいという方のメールもあった。  この句は一方では「極楽の文学」(虚子)とも言える俳句のある一面を読んだもので、説明しだすと 長くなる。人生にもそういう一面があると思うが、そういった面でのぼくの実感としかいいようがない。 そして、俳句はある瞬間、ある断面を切り取ってよむということが基本の一つにもある。小説でも長篇 詩でも論文でもない。  湘子先生は俳句史におけるこの間の事情を次の句に昇華されている。 ゆくゆくはわが名も消えて春の暮 (藤田湘子)     ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆      佐々木敏光句集 『富士・まぼろしの鷹』 (邑書林)


 
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