佐々木敏光・俳句個人誌『富士山麓(第二期)』 2023年十月号(最終号)


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  第二期の終刊となりました。以下は、過去の記述となります。ありがとうございました。        ***********  《第一期》終刊となりました。《第二期》として2018年二月に『富士山麓(第二期)』再出発しました。 なお、個人誌『富士山麓』(第一期)発表の句をまとめて、 続 佐々木敏光句集『富士山麓・晩年』(邑書林) を出版しました。タイトルは「晩年や前途洋洋大枯野」に由来します。   ☆第二期について☆ ○『富士山麓(第二期)』のテーマは「(続佐々木敏光句集以降の)「百八句」へ向けて」となります。 ○更新は原則的には隔月刊とします。                              (今回最終号となりました。) ○とりあえず「「百八句」へ」と称して、冒頭に適宜句をあげていきますが、候補群でまだ決定稿ではありません。(最近号はこの項目ありません。)    ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆  俳句個人誌『富士山麓』<第二期>2023年十月号(最終号) ****《目次》****************       「百八句」候補へ  2023年号  十月号   七月号   四月号    2022年号  十月号   六月号 2021年  十二月号  九月号  五月号  二月号  2020年  九月号  五月号  2019年  十二月号  九月号  六月号  四月号  二月号    2018年  十二月号  十月号  八月号  六月号  四月号  二月号 ******2023年十月号本文****** 夏嵐森揺れ森とともに揺る 乱舞する秋のアカネに取りまかれ    バッハ ミサ曲引用 あはれんでください、独裁核の冬 宗匠の一時一刻蟻地獄 ゆつたりと落花あびゐる矜持かな 滝壺へ身体よろめく齢かな 時に身をゆだねて死へと去年今年 炎天下川黒々とながれをる 顔のなき二人のくるよ月の道 インド ワーラナーシー 炎天下ひと焼く煙肌の泡 名月や庭あちこちに小天使 闇に火を捧げる手筒花火かな 薪能魂(たま)のごとくに飛ぶ蛍 雲海の底に我が家やわがくらし 新緑へやはらにとけゆく心かな 未完なる人生あまた秋の暮 炎天へ高波白刃かざしをる 梅一輪一輪づつの重さかな おほみそか粗忽夫の妻つよし 卵子へと近づく精子寒スバル 黒揚羽さまよひたらぬ庭の面 石段をトントンおりて若き春 春を待つ心へ咲くや小さき花 欲望の肥大のこの世原爆忌 炎天やモール街にてひと涼み おかへりと虻らはぼくらまとひ飛ぶ 冬夕日明日ものぼれとただ思ふ 雪富士や五大の無音の響く中 若草に寝ころび眼(まなこ)宇宙へと 葉陰にはエナガ群れゐる炎天下 虫の音に清められゆく体かな 美しき敗者へ桜吹雪かな 秋風や森の風琴(オルガン)厳かに ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆  最終号となった。いささかの感慨はないではない。  この9月で80歳になった。ペースをおとして  時たま『俳句メモ』に、適当に句を乗せる程度にしておく。  よろしくお願いします。  目次へ ******2023年七月号本文******    浅間大社御田植祭 よき乙女御田に苗を投げいれる 白紫陽花白い蝶々白い椅子 月光の満ちひろごれる庭に足 おちよぼ口山百合花弁ひろげんと 蓑虫の生涯思ふ日暮かな 宗匠の春夏秋冬蟻地獄 高波のかなたや空の寒北斗 蝮草ばかり元気や裏の道 全景は雲海なりや湧きつづく いろいろの仮説を生きて秋の暮 カナカナの大合唱や森の家 水鳥の声のみ聞こゆ霧の湖 ほととぎす聞くや厠の長時間 夏の夜はかなたの奥の闇に果つ パリの夏妻犬の糞踏み悲鳴 カタコンブ骨うづたかし外は雪 川面には水の速さの蝶々が 山百合のつぼみやさしく撫でてゐる 春の森大きな声の小人さん 手のひらの暗黒星雲天へ投ぐ 天と地を浮遊してゐる春の人 おぼろ夜のはるかかなたに戦(いくさ)かな 空つぽの脳に涼しく風の吹く 脳の底しずかな春の村がある 小鳥来るペこんとお辞儀飛び去れり 噴井より涼しき風のわきいづる 流木として秋の広間に寝まるかな ふくろふの顔思ひつつ夜の電話 夏夕べ畑(はた)にどつしり妻の尻 やがて死ぬみなさまがたと花見かな 苔の花しづかな風にそよぎゐる 梅雨出水難儀な足で徒わたる 口笛や秋青空の澄み渡る 湖北なる古戦場なり鼬(いたち)立つ 春雨や用なく傘をさして出る 終末へ時計の音や秋の暮 あれこれと生き延びてゐる冬田かな しづけさや悪夢みてゐる冬の妻 石舞台妖しきかげのおどるとき この家を包める霧のほこほこと 月光を浴びて山河の浮くごとし 月光を寝室に浴び寝まるかな 小鳥来てささやく春のうはさかな 新緑の森あり家あり本もある 入口も出口もなくて秋の暮 月天心森の泉の黄金(こがね)光 この家を包める霧のほかほかと 春泥は老いたる足に悪さする レノン忌や昔若者しかられて   東京 エレベーターのり継ぎ老いの春の旅 窓辺には剣葉窓外ビルの群れ 監視カメラ東京駅に柿を食ふ 少年は今は老人落花あぶ 笑つても笑ひきれない秋の暮 裏道につづく青山遊行する われを焼く火のいとしきを秋の暮 春夕べ貌なき人に会釈する 団栗や口から先にうまれしか 雪化粧今年も終えて美人富士 新緑の波にうかびて我が家かな 小鳥鳴く朝の眠りにめざめけり 小カオスなどなどありて短夜を この坂を登れば見ゆる雪の富士 下闇や泣くに泣けないことばかり この家を包める霧のほこほこと 故郷は霧につつまれ美しき 六月やわが愛犬の歩調よし 危険なり春の街ゆく乙女たち 冬便り富士山麓に老いて死す あたたかき落葉の底に眠りたし 色あふるマチスの春の色祭 大空にたゆたふ夕焼あほうどり 駿河甲斐富士はよきかな雪の富士 炎天下「死は存在しない」の本もちて 超新星爆発妄想の花火の夜 ゆれてゐる百合よ時間よわが魂(たま)よ 裏切りの古戦場なり菫草 遊行期は富士山麓か雪の中 黄落の日々のあなたの未来かな コロツセオ夏太陽の血の夕立 おぼろ夜やはるかかなたに戦(いくさ)あり とりあへず無念無想の端居かな 月の夜は狼となり吠えたしと 噴井より涼しき風のわきいづる 流木のごと秋の広間に寝まるかな 嫌はれて花美しや山の藤 ふくろふの顔思いつつ夜の電話 夏夕べ畑(はた)にどつしり妻の尻 老人もこころおどれる祭かな 酔ふことに決めて眺むる望の月 一つ家に病む人すめり月煌々 真みどりの山路真つ赤な山つつじ 山道をよぎる春水キラキラと 夏空にたゆたふ彼はあほうどり アンパンマン飛んでる空や麦は穂に この森に我が家と本や秋の暮 生ぐさき夏のインドよ蓮の花 成長に驚く山百合開きをる しんしんと雪ふる空の深さかな 靴下のまことに臭き夏来る 列柱の並ぶ師走の奥の闇 年の瀬やいづれあやめかかきつばた 眠る子の月光放ちゐたりけり アダージヨの調(しらべ)の庭見る秋の暮 目次へ ******2023年四月号本文****** 歳晩や光の都市にめしひゆく   見上げるのみの富士 雪の富士のぼる夢なり滑落す いい空気吸ふため生きる富士の秋 告知あり受胎さまざま春の野辺 山路行く春の産毛の中を行く このうねりやがて終曲花吹雪 つれなくもこの世に生まれ花と月 初夢やだあれもゐないこの地球 富士ととも春天籟を聞きてゐし ハロウインの犬の仮装やなんじやらほい  春野行くレツトイツトビ―の翁かな 雪白くまことの富士となりたまふ ひつそりと交尾してゐる飛蝗(ばつた)かな 小都市を丸ごと夕やけ色に染め 冬の海眼下にまぶし富士下りる 静かなる波の上行く春の修羅 だましつつ生きてきたかも除夜の鐘 庭かける子犬のやうな落葉かな Stay hungry stay foolish 夏怒涛 富士山は巨大なメンヒル冬北斗 やがて死ぬわれらこぞりて初笑ひ 眼裏に雪の富士たつ狭霧かな 素肌もて雪野に座る雪だるま 山彦の呼び合つてゐる春の山 冬の海眼下にまぶし富士下りる 遠吠えのかなしき冬の犬となる この妻を愛すべきなり老いの梅 淑気くる富士の麓の我が家にも やはらかき春の土なり指で掘る 五月雨を最上(もがみ)の船は進むかな わが庭の初日浴びをり妻もまた 淡々と生きての年の湊かな 不条理のこの世に聳ゆ雪の富士 老人の長き影ある枯野かな 滝おつるわれの命まん中を 美しき雨のキララや枯野ゆく 冬日向座して死をまちゐる心地 舐めるぞと大沢崩れの雪の舌 たましひのごとくに富士の初日かな サド住みしラコスト城の血の夕日 激流はやがて透明秋の川 水面には紅葉青空びつしりと わが庭を幾度も回る冬の旅 初夢やつひには誰もゐなくなる 新芽ふく春の盛りに永眠す 冬の海眼下にまぶし富士下りる おだやかな波の上行く春の修羅 老人の長き影ゆく枯野かな 死のうなど思つたことなし花の闇 やがて死ぬぼくの見上ぐる雪の富士 君きたる枝垂桜をわけてくる 梅林を鹿の二頭のゆくり越ゆ モール街ソフアーにすわり春惜しむ 退屈な時間閉ぢ込め春の土手 わが孫がわれの未来か秋の暮 退屈なわれらに桜散る豪奢 さまよひて枯野に消ゆる狸かな 棘のある言葉なつかし秋の暮 一期夢京都よ巴里よ雪の富士 桜あび我が家の庭に老いにけり わたくしも寡黙なひとり雪の富士 遠景はなべてあの世や秋の山 紅富士へ心は駆けつけゐたりけり 春の闇ぐんぐん伸びる根つこかな 霾(つちふ)るや川は流れてをりにけり *************** ***あえて残した句****** この道はいつか来た道秋の暮 春風をやさしくなぜて菩薩かな つれなくも生まれたる世の雪月花 花散るや心の底に消へてゆく 一瞬に過ぎない人生富士に雪 人生は万華模様か初日の出 裸にて自然(じねん)にすわる雪だるま 有無などにとらはれないぞ夏に入る 一つ家に女房も寝たり虫の声 新教師希望に満ちて新学期 冬眠の熊の夢にもウクライナ 仕方ないわたくしですが雪が降る ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆  個人誌新刊号。  ややペースをおとすことにしていたが、それにしてもおとし過ぎだ。 メモは適当にしていたが、六カ月ぶりの発行だ。  足の不都合などあれこれかさなった。  次回か、その次あたりで、一応第二期を終えたい。  この9月1日で、80歳だ。時にはまじめに、  時にはなまけて、いつしか80ってわけだ。  仕方がないといえば仕方ない話だ。  目次へ **「百八句」へ向けて(とりあえずの候補なのだが)**    月光を浴びて無人の地球かな   (2022年十月号) 大仏のごとく富士座す春の空    月の森百鬼夜行のご一行    山の子は河童となつて滝壺へ   秋晴の山と海ある駿河かな    宮島や広島方面夏の雲    やはらかき春風に乗り無用者  晩年やあつというまの雪月花    能なしのわれへ豪華な花吹雪   大丈夫かい人間諸君秋の暮    人の禿見てゐるわれの枯木髪   まるしかくさんかく春の富士の雲  入道雲富士に坐りて腕をくむ    人生は俳句と思ふかはづかな    存在が存在思ふ秋の暮  秋天を分かつ飛行機雲富士へ ふらここや未来へ漕げりまた過去へ   かなしみの花の吹雪となりにけり   ベランダや三光鳥の声に酔ふ   富士宮熊出没 熊の鈴ふりつつ歩く裏の道         (2022年六月号) この道は桜吹雪や夢舞台 霧湧くや森を歩めば老忍者 夜汽車てふ昔の窓の冬銀河 夏草は棄嫌に生ふる妄想も 指の間を時は流るる春の水 月光や海底のごと森歩む 口笛で何呼ぶ夜の虎鶫 老人は怒ると怖い梅の花 鴬の初音や森に神ゐます 春の水ここにて落ちて滝となる 踏絵などとつくに忘じハライソに 山水経耳底より湧く秋山河 春眠は翁の特技発揮する この生の他に生なし去年今年 諸鳥の中法華経の二三声 うしなへるものを思へり今朝の秋 わが住める林さ迷ふ秋の暮   裏山は天子岳 初春や富士や天子に囲まれて 月光の金箔降れり森の庭 初夏の沼何のけものか死体浮く 俳人は老成はやし桃の花 真の闇心の真中蛍飛ぶ 秋空や富士白雲と遊びをる 大渦の桜吹雪の真ん中を    森の中のわが家 老人のわれへ目覚まし鴬か 年老いたわれへしばしの花吹雪 春の海襦袢のごとく波よせて 春の土掘ればぞくぞく春根つ子    懐かしい国鉄パリ6大駅 パリの駅一つ浮ばず雪解富士 サテイ聞く夏の静かな森の朝 トンネルの果の光よ新緑よ 静かなる夏の山路や力満つ 月光を受けて静まる刃かな 過去は過去老いたるわれへ花吹雪 富士青空タイフーンは南より 天と地を飛び跳ねてゐる孫の春 水奔る音の豊かな春田かな 自動車は後ろにすべる雪の坂 裏切りの歴史の空を春の月 奥の部屋窓に新緑みちあふれ この世へと蝶々一頭落下する 山鳩の羽根吹きあがる富士の空 初日あび総身輝く庭の木々 叩いてもなおらぬパソコン去年今年 枯枝に鷹の鋭き眼かな スーパーの浅利潮吹く春の昼 四月馬鹿桜の中に目覚めけり 満開の桜の中の俺の鬱 クリスマスツリーの前で読む老子 運歩する山河の空や鷹飛べる 赫々(かくかく)と冬至の朝日生れけり    (2021年十二月号) 火山湖よ水面(みなも)に続く雲海よ まん中に雪の富士ある日本晴 秋天や身内流るる深き河 大股で歩む枯野や八十路へと 黄の蝶の茎にとまりて花となる 宰相の黒いマスクの死んだ目よ 天の川宇宙飛行士犬泳ぎ 疑念なき牛のまなこや秋日和 朗らかに富士冠雪を告げる妻 月光や書物にかこまれ老ゆるわれ なつかしくわれを見つめる冬の牛 花散るや独語のわれの上に散る ご苦労さん生物諸君去年今年 虫の闇われにはわれの真暗闇 満月に輝く庭と山河かな 秋晴や富士稜線を子連れ雲 タブラ・ラサ蜘蛛の囲の張る裏の道 蜩や定年以降の積る日々 女郎蜘蛛殺して長き日永かな しづもれる脳のすきまやキリギリス 何もなき老後の秋の日和かな 山麓の落葉の中やわが方丈 フランス語の寝言聞こゆる冬の夜 落葉踏む音やどんぐり落ちる音 目の裏に紅葉の紅が張り付けり 黒雲のすきま全き月出でり あごに手をあてて居眠り除夜の鐘 名月や特に輝くわが庭面 雪の富士つひの住家の大空に 切株の年輪見つむ老いの秋 生きものとしての晩年大枯野 考へを捨てて歩けば鹿の声 すべらじと落葉と雨の山路かな 森の空宇宙は青し小鳥来る 敦盛草廃墟の庭にひそと咲く 白鳥の口に歌ある渡りかな 宝くじ売場へ散るや金銀杏 木枯しや地よりわきたつさだめごと 心底に燃ゆるものあり去年今年 富士降りる光あふれて冬の海 豪奢なる迷路さまよふ紅葉狩 寒林やしやがみて男猫にえさ 枯れ枝や枯野みわたすモズ一羽 目つぶしをあびて停車や冬夕陽 芒の穂共にゆれゐる齢(よはひ)かな 薄雲の天衣まとひて雪の富士 ぼけ老人演じ電話へ秋の暮     春うらら田舎暮しの小地獄  (2021年九月号)     山里に響く雉の音雉日和     別荘の廃墟にひそと敦盛草     日本は田植の国や棚田行く     大空を領せし鷹の大翼     新緑や白き椅子あり輝けり     富士塚や屋根の合間の雪の富士     薔薇の花薄絹のごと風に透く     鶯の声(ね)に包まれて我が家かな     梅雨晴間裏の道より沢の音     テレビには見世物俳句秋の暮     巡回す花蜂くんへちと会釈     かるがもの逆さ富士越ゆ水田かな     ひろごれる水田はるかに養老院     青空や傷を隠さず雪解富士     ウグヒスや朝寝の脳を鳴きまくる     ワクチンを終へ正面の雪解富士     零戦のあらわれさうな夏の雲     行く川にそひきて海の海市かな     地底より響きし声か牛蛙     木漏れ日の美(は)しき散歩をいつまでも     古池や亀はわれ見てダイビング     鳶たちの風のサーフイン夏の浜     ホトトギス特許許可局聞き飽きた     酔ふてねて月天心の森の家        免許更新     炎天下認知機能の検査へと     老いといふ経験なしの悪路かな     三島の死老いの拒否なり雪の富士     老年へ備への禅や暮の秋     われ思う故にわれなし富士の虹     留守なのだ天下の秋をわれは留守     光りたる前頭前野夏の闇     裏の道大河のごとし梅雨深し     主張するオオルリ彼のなわばりを     ステイホーム夏草かつてに伸びてゆく     ステイホーム全裸の自然にかこまれて     薬屋に薬の山や春の地震     挫折者の描く寒月方丈記     帰りなむ母の羊水天の川     精霊の目覚の花や合歓の花     朝寝して森の時間の中を浮く     夏暑し静かにならぶ書架書棚     緑陰に車をとめてさて昼寝     妄想も消えてただ大空の雪の富士     地より湧く虫の声にぞ浮く身体     ばちあたりいつしかわれも老いて秋     まれ人に逢ふも枯野や遠会釈     地図なしにわたるこの世や大枯野     宇宙とて将来不明去年今年     一夜かけ鳴くは何鳥夏の朝     たゆたへどしづまぬ地球流れ星     億年の果てのコスモス畑かな     岩かげに難破船ある良夜かな     わが齢実盛こゆか月見草     寝ては夢おきてはうつろ雪の富士     狼がペツトシヨツプでじやれてゐた  (2021年五月号)     永遠に泳ぐ他なき銀河かな     老い老いてなべて幻雪月花     無明なる脳の荒野の初日かな     立春や新緑淡き海の色     舞ひ遊ぶ砂の小人や春泉     鶲(ひたき)来るやさしき空気まとひ来る      シヤンソンや春の森には若きわれ     うつくしきコロナ時代の花吹雪     マスクかけ玄関に出てサインする     鶯の声を聴いてる診察台     戦前のやつらのゾンビかびの花     月光へさらす素直なわが心     大地掴む巨大な根つ子枯葉道     初夢の悪夢の中を歩きぬく       紅富士     夕空や魔の山然と紅き富士     人生や時にやさしき牡丹雪     わが寡黙見おろしたまふ雪の富士     永遠へ手を振る子らや春の海     「熊注意」怯えて孫や春山路     お薬は次々のどへ春の朝     蜘蛛の囲に殉死の蜘蛛の美しき     われがわれ抜いてしまひぬ春の走(ラン)     山脈の肌やはらかし春の風     梅花藻や流れて揺るる腰美しき     春の川同じはやさで歩かんと     シャボン玉軽きこの世の空をかな     わが森のわがふくろふと決めて聞く     記憶なき記憶の日々や終戦日     枝の雪微塵の光となり風に     見えぬものあたたかく降る春の雨     魂(たま)のごとわがてふてふは宙めざす     桜散るチエホフをしのぶ若きわれ     富士の闇土地の小桜ほの光る     雪の富士後光数条飛行雲     サルトルもヴイヨンも入(はひ)れ大焚火     山峡をゆくや廃村合歓の花     冬眠の覚めし瞼へ花ふぶき     野良猫の糞とる日課桜散る     人生の不思議を思へほととぎす     鶯の美声こだます朝寝かな     桜散るヤコブの梯子の空をかな     女坂のぼりくだりや桜時     蜘蛛の糸光る一瞬初夏の空     タラの芽を空の光に摘みにけり     絶叫や妻打ちたまふ大百足     すべり台落花をすべり別の世に     春の日の集まつてゐる山里へ     森々と森羅万象雪が降る             (2021年二月号)     冬の部屋胸底にあり閉ぢこもる     蜩(ひぐらし)や完熟すすむ我が五衰     煌々と白き魂雪の富士     龍雲を二つはべらせ雪の富士     枯蟷螂さつきは居りし今不在     一切は空(くう)のこの世や初山河     コスモスの花揺れてゐる深宇宙     胸底の枯野と菜の花畑かな     水輪湧く透けて見ゆるは秋の鯉     踏切の鳴るや子供となりて待つ     シヤツターにやさしく西日そそぐ街     我が庭のすすきの上の望の月     秋雨や祈り静かに庭の面(おも)     天高しトランプヒトラーと背比べ     蜩の朝鳴き夕鳴く森に住む     遠近の雷や静かに読む老子     ふくろふの観てゐる人の幸不幸     厭離穢土彼岸へ泳ぐ蛇の首     自虐するわれへとつくつくぼふしかな     死に至る病の地球大銀河     わが死後の百年の虫千年の月     やはらかな死体のポーズ夏の森     殺人や証拠物件曼殊沙華     冬の森清々し気を肺胞へ     罪人のわれは幼き終戦日     眼底にじわじわ湧きて大銀河     おもしろきことなき世なり掃納     天高し「ご長寿祝」届きけり     蹲踞してカマキリの死凝視する     からつぽのあたまのなかの秋の暮     冬の川沢音蜜語かたるごと     ところどこ靨つくりて春の川     一群の破れ薄や空つ風     森の鹿台風一過の夜を鳴く     街師走富士塚登りおりてみる     飽きはじむ落葉の道を楽しとも     光受け雲美しき十三夜     蛇(じや)のごとく不逞な根つこ落葉道     カマキリはバツタの頭爆食中     橋渡りまた橋渡り秋の暮     すべるまじ雨の散歩の落葉坂     寒林の光の中を飛ぶ鴉     北風の独語と叫び聞く寝床     大宇宙始まるこの空初茜     逆さ富士足下に近く雪の峯     コロナ禍やベニスの去年の月の寂(さび)     路はてて激しき崖へ冬日かな     海峡へさしあぐ河豚の一切れよ     枯葉道枯葉踏む音(ね)に包まれて        寒林や光輝く照葉樹     テントより幼児の声の二日かな     霜の庭日に輝きて露の庭     繭ごもる小さな窓や雪の富士     滝落ちてやがて海へと秋の水     残念な死の堆積の地球・冬             蜩の朝鳴き夕鳴く森に住む           (2020年九月号)     遠近の雷や静かに読む老子     ふくろふの観てゐる人の幸不幸     厭離穢土彼岸へ泳ぐ蛇の首     自虐するわれへとつくつくぼふしかな     死に至る病の地球大銀河        *     灼熱の富士の肌(はだへ)を登るかな       校庭の百葉箱の暑さかな     信長の首塚のぼる蜥蜴かな     ベランダの木のサンダルにきのこかな     幸ひは山のあなたや夢見草       夢見草=桜     蝉鳴くやモーツアルトを聴ける窓     いづこへの途上や七十路(ななそぢ)春の風     滝音の青く高鳴る若葉かな     首塚や若葉の香り血の匂い     気の利いた俳句クールや油照り     堂々とくたばつてゐる夏の主婦     飛び跳ねるバツタ先立て草を刈る     カツトスイカ買いて夫婦の暮しかな     川風に吹かれて憩ふお盆かな     広がれる3D画像の若葉かな     眼底に若葉ためこみ峠へと     緑陰を出で青空へ黒揚羽     炎天下楕円に近きわれの影     信長の腰掛石へ春日かな     永き日のスピノザ難(かた)しまどろみぬ     濁世の手あらひにあらふ清水かな     新緑に花ぶちまけて薔薇の園     巣を守る相手は鴉黒燕     笹刈りや山百合も刈り妻激怒     夏草や売り別荘の隠れ札     雨戸閉め繭の心に閉じこもる     風光ることに輝く庭の草     揺れてゐる蛍袋の中の蜂     富士にむけ頭突きしてゐる子山羊かな     木陰から木陰へ流浪炎天下     いづこへの途上や七十路(ななそぢ)春の風     万緑の空に伸びゆく山路かな     親の顔みて鳰(にほ)の子のもぐりけり     まよひ来ていつか田舎の春の道     若衆の無くば神なき祭かな     老人性掻痒朝から蝉の声     雲間より富士覗きをる薔薇の園     ヒトラーの変種トランプ神の留守     霧深し森の我が家へ生還す     山百合の肩のさびしき夕べかな     霧深し行方不明の山河かな     夏の日や音符と揺れる木漏れ日よ     梅雨の濡れ石段ためらう齢となる     梅雨の雨天をあふぎて天馬かな     夏夕べ並の死体のポーズする     くちなしの白き香りの我が家へと     直立の薄の茎の上の花     いづくにか蝉の鳴く木や見つけ得ず     桜貝少年の頬紅潮す     ポピー揺る巨石の立てる遺跡群     山鳩の通奏低音夏の森     新緑に心吸はれてゐるところ     二上を血潮に染めて夕日かな     沢音の響きの中や若葉騒     万緑のど真ん中から牛の列     脳天の閃光轟音日雷     モンシロテフ初めてみたと都会の子     半分は濡れて夕立(ゆだち)の森の道     万緑や昏きより舞ひいづ黒揚羽     蜘蛛の囲を次々裂きてゆく行く手     富士塚にのぼるに汗の滴かな     鳴りわたる滝の鼓動や空の富士     湖のそこひに富士と桐の花     人気(ひとけ)なき茅の輪のたてるコロナの日     霧湧くや山河おのづと沈みゆく     白き道白く続きぬわが白夜                   寒林の微動だにせず空気また           (2020年五月号)     春雨や免許書忘れ運転中     つららもて刺したき人のある昔     杉の秀に輝く寒の金星よ     遠近に高さの違ふ霜柱     エアバイク踏みつつ年を越えゆけり     よくすべる落葉の斜面登るはめ     我が頭上大きな宇宙春大地     春光の中を妻来る不思議かな     春の日や光まみれの小鳥来る       善得寺 三国同盟の庭     春の日や駿甲相の石の黙(もだ)     老年や筋トレとなる雪の坂     菰(こも)まとひ松には松の冬ごもり     無言なる宇宙の雄たけび春の闇     梅の香や女房敏感われ愚感     いつか死ぬ諸般の事情冬銀河     眼差しをさらに遠くへ枯野道     冬田越え小学校の唱歌かな     すすき野の沖より我へ大津波     風花や枯木林の華やぎぬ     冬空をかき回しゐる大クレーン     都鳥隅田長夜の水面(みなも)幽(ゆう)     雪の夜や遠くなまめく灯がひとつ     深緑秘め海のごと大雪野     わが死後の風花美(は)しく舞ふ枯野     人生や初詣に行き死せる彼     朧へと身体溶けゆく齢かな     東京や処々に落葉の吹溜り     秋の森地下よりひびく秋の歌     真正面雪の富士立つ駿河かな     初日の出水平線は黄金なす     秋夕べ静かに呼吸してゐたり     哀しみの極みの空や赤とんぼ     去年今年富士こゆるらしジエツト音     光輪のごとき笠雲冬至富士     少年のわれは宇宙へ平泳ぎ     春を待つ老いた少年宙返り     濃き霧や足下に響く滝の音     春の暮カントについて考へない     春の空絶命危惧種の鳥が飛ぶ     おほかみの骨は眠りぬ寒の月     行く春や猫のうんちをふんじやつた     鹿の目に大和の国の若葉かな     やはらかいベツドの雲や春の富士     若芝の無限の緑愛でるかな     タナトスやエロスや日本桜の夜     わが愛でし子犬の墓へ桜かな     川見んと土筆の土手を登るかな     春の森鷺高鳴けり何の意ぞ     富士塚にのぼりて春ををしみけり     閉鎖せる道路の奥の花盛り         春の川息切れしつつそに沿へり     「ちよいとこい」鳴かれどおしの春の里     春の雲白しほらほら白い馬     富士かこむ山の笑ひの中にゐる     森深く落花あびゐる涅槃像     生涯の桜今散れ埋もれん     古池や音なく無数の蝌蚪泳ぐ     見上げゐる無限の宇宙蟻地獄     春の野やまろびて大地に置く頭     鱒池に浮かぶは屍魚や春の風     ざんばらの雪の髪毛や春の富士     桜山ふくれて花弁はき出せり     春の海水平線は萌ゆるごと     若葉より千の糸湧き滝と落つ     コピーする芭蕉書簡や春の富士     水切の軽々とぶや春の川     桜吹雪あびてほほ笑む翁かな     春眠の遠き沖へと泳ぎ行く     春風のさらひゆくもの追ひつけず     大き月右肩にのせ春の富士     君賢(かしこ)語りたまヘよ桜の夜     落葉舞ふくるくるぱーのこの世かな     (2019年十二月号)     前世は宇宙と思ふなまこかな     水澄むや川底歩むわれの影     コーランと冬の富士ある窓辺かな     雛壇や畦の斜面の曼殊沙華     大滝の冷気の奥の霊気かな     幽林や微笑かそけき毒茸     道化師が見あぐる秋の富士の山     老いた修羅ゆく満月の光浴び     笹鳴をインターネツトに確認す     アイス喰ひ富士の白雪見ていたり     紅葉谷白蛇のごとく水流る     「鹿死体放置禁止」や夏山路         (2019年九月号)     夏祭氷の刃(やいば)に血潮かな     夏の森真白き椅子にわが白髪     源流は若葉したたる所なり     霧の森シテとして舞ふ大欅     その淵を心冷えゆくまで覗く     蜩(ひぐらし)は悲しく喜悦歌ふかな     直角に曲がりて直進オニヤンマ       ベニス、ウイーン旅行 五句     夏の波運河に遊ぶベニスかな     ゴンドラを操る夏の筋肉よ     炎天をモーツアルト像として立てり     白鳥の花の如飛ぶドナウかな     雷光の窓辺ベートーベン旧居     富士そびゆシヤツター街の炎暑かな     日傘さし炎暑の沖に消えゆけり     烏鳴き妻は鼾の夏の朝     汗のシヤツ枝にぶつかけ夢想かな     「あついねえ」独語の翁に同意する     子供らを集めて淵の水遊ぶ     心の闇侍(はべ)らせ見あぐ大花火     通るたび張りをる蜘蛛の囲まづ壊す     稲穂揺る空ゆつたりと富士の峰     漫然と命山(いのちやま)より眺む富士     天の川流るる中の地球かな     仮面もて紅葉の山をすり足で     夏の朝自然(じねん)に湧きて鳥の歌       (2019年六月号)     春眠や空中にわれ漂へる     夏早朝(つとめて)鳥鳴く鳥の時空かな     下闇の涼しき開山六百年     下闇や敗者勝者の列無明     見るべきは見つと飛び込む銀河かな       迂闊にも歩き脱ぎして初湯かな          (2019年四月号)     飼ひならす虚無や天空朧月     天体の輪廻転生去年今年     青空や一壺の天の春の富士     点として地上のわれや鳥帰る     牢獄としての身体春の雲     矢印を曲ると見事な桜かな     大いなる仮面の裏の春の園     富士統べる桜満開浅間社     春の鯉水面に口開け大あくび     山河またただよふものや霧の海          (2019年二月号)     北岳の槍突き立てり甲斐の冬     雪山へ対岸の人消えゆけり     寒林や卒塔婆小町の風の声     初山河真中ゆつたり雪の富士     滝の空両翼ひろげ雪の富士     くつきりとレモンのごとき寒の月     日の本や夢のごとくに雪の富士     細胞は生死をやめず去年今年     去年今年自己薬籠中のもの皆無             矛盾的自己同一や雪月花     天高し心は地球俯瞰する         (2018年十二月号)     月光の薄絹まとひ山河かな     正面に雪の富士ある家路かな     冠雪や富士総身の青く冴ゆ     雲海や水平線に神の嶺     冬の森闇に浮き寝のわが身体     天空は巨大な時計冬に入る     神不在われは未完や秋の暮     わが湖へ今着水の真鴨かな     黒雲(こくうん)を裂きて黄金(こがね)の初日かな     天高し背筋正して富士の山        (2018年十月号)     富士の闇知りつくしたる清水汲む     我が庭を巡回中の鬼ヤンマ     青嵐木々は腕ふり歌ふかな        (2018年八月号)     ああ太宰水中深く泳ぐかな     緑陰や大地に座り読む老子        (2018年六月号)
  **** 十月号 (2022年) **** (2022.5.25. 発行) *****   十月号19句 月光を浴びて無人の地球かな 大仏のごとく富士座す春の空 月の森百鬼夜行のご一行 山の子は河童となりて滝壺へ 秋晴の山と海ある駿河かな 宮島や広島方面夏の雲 やはらかき春風に乗り無用者 晩年やあつというまの雪月花 能なしのわれへ豪華な花吹雪 大丈夫かい人間諸君秋の暮 人の禿見てゐるわれの枯木髪 まるしかくさんかく春の富士の雲 入道雲富士に坐りて腕をくむ 人生は俳句と思ふかはづかな 存在が存在思ふ秋の暮 秋天を分かつ飛行機雲富士へ ふらここや未来へ漕げりまた過去へ かなしみの花の吹雪となりにけり ベランダや三光鳥の声に酔ふ    十月号 月光を浴びて無人の地球かな 社交など人にまかせて春の野を この道をゆけばハライソ踏絵かな 山羊さんが若草たべる地球かな 不条理を生きたつもりの若き春 大仏のごとく富士座す春の空 夏の夜や宇宙夢見るために寝る 晩年やあつというまの雪月花 ベランダや三光鳥の声に酔ふ 月の森百鬼夜行のご一行 山の子は河童となりて滝壺へ 訥弁なわれ生きてゐる汗の中 秋天の遥かな奥の宇宙かな 秋晴の山と海ある駿河かな 水音や夏の底へとおりてゆく ベランダに新緑見つつ老いゆくか 芭蕉忌や富士の空行く芭蕉雲 宮島や広島方面夏の雲 やはらかき春風に乗り無用者 能なしのわれへ豪華な花吹雪 カナカナのカナカナとなく夕べかな 大丈夫かい人間諸君秋の暮 人の禿見てゐるわれの枯木髪 炎天へ昇天せんと蝶二頭 まるしかくさんかく春の富士の雲 剣が峰もしやロケツト夏銀河 入道雲富士に坐りて腕をくむ 聖人のおのが首もち行く枯野 青風やかわが家少々浮遊する 水底に水の私語満つ水草生ふ 新緑のやはらの呼気に包まれて 滅亡へ向かふ人らも盆踊り 人生は俳句と思ふかはづかな 次鋒とて剣道汗の昔かな 新緑の森の奥なる大き耳 存在が存在思ふ秋の暮 マネキンが手をあげ主張モール秋 裏口の蜘蛛へ任命番人と 秋天を分かつ飛行機雲富士へ 俳句にも宿る無限や銀河天 ふらここや未来へ漕げりまた過去へ かなしみの花の吹雪となりにけり タンポポの黄なる野原へダイブする 山麓をさまよふ老人春の風 目つむれば地球の春と終末を キヤンプ場とびかふ英語空の富士 太宰遠し戦後はすでに八十路へと 末世かなまた繰り返す秋の暮   ******** わが庭にきてゐる鹿へ花吹雪 水草のやはらに揺るる泉湧く たんたんと歩む日常流れ星 また迎ふ二百十日の誕生日 わが庭の自然の神秘見ず老いむ 濁流と清流集ふ鵜立つ岩 虚無僧の小便してゐる若葉かな 寝転んで畳の広き故郷かな 年老いて西日のおつる坂の道 鮟鱇のつられて最後のよだれかな カナカナの通奏低音満つ地獄 月に飲む李白の影よ空の富士 万緑にせまられている古老かな 雪の富士空に輝く無の一字 啄木鳥のドラミング打つ心の臓 百までを生きるつもりのたぬきかな 故郷は富士は見えねど春の波 てふてふは目の前そして青空へ 雪解富士雪かがやけり風香る 悲劇とか喜劇とかやは去年今年 緊張の紐ややゆるめ秋の暮 うづもれてそのまま逝きたし枯葉かな 遺言を枯葉に書かん朽ちゆかん 大木をなぜる男へ落葉かな 風吹くや青田世界のなびく悦 生き抜いた一所懸命母の生 ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆ 久しぶりだ。これでは年二回、半年ぶりの発行だ。  もう少し頑張るか。  目次へ **** 六月号 (2022年) **** (2022.5.25. 発行) ******   富士宮熊出没 熊の鈴ふりつつ歩く裏の道 この道は桜吹雪や夢舞台 霧湧くや森を歩めば老忍者 夜汽車てふ昔の窓の冬銀河 夏草は棄嫌に生ふる妄想も 指の間を時は流るる春の水 月光や海底のごと森歩む 口笛で何呼ぶ夜の虎鶫 老人は怒ると怖い梅の花 鴬の初音や森に神ゐます 春の水ここにて落ちて滝となる 踏絵などとつくに忘じハライソに 山水経耳底より湧く秋山河 春眠は翁の特技発揮する この生の他に生なし去年今年 諸鳥の中法華経の二三声 うしなへるものを思へり今朝の秋 わが住める林さ迷ふ秋の暮   裏山は天子岳 初春や富士や天子に囲まれて 月光の金箔降れり森の庭 初夏の沼何のけものか死体浮く 俳人は老成はやし桃の花 真の闇心の真中蛍飛ぶ 秋空や富士白雲と遊びをる 大渦の桜吹雪の真ん中を    森の中のわが家 老人のわれへ目覚まし鴬か 年老いたわれへしばしの花吹雪 春の海襦袢のごとく波よせて 春の土掘ればぞくぞく春根つ子    懐かしい国鉄パリ6大駅 パリの駅一つ浮ばず雪解富士 サテイ聞く夏の静かな森の朝 トンネルの果の光よ新緑よ 静かなる夏の山路や力満つ 月光を受けて静まる刃かな 過去は過去老いたるわれへ花吹雪 富士青空タイフーンは南より 天と地を飛び跳ねてゐる孫の春 水奔る音の豊かな春田かな 自動車は後ろにすべる雪の坂 裏切りの歴史の空を春の月 奥の部屋窓に新緑みちあふれ この世へと蝶々一頭落下する 山鳩の羽根吹きあがる富士の空 初日あび総身輝く庭の木々 叩いてもなおらぬパソコン去年今年 枯枝に鷹の鋭き眼かな スーパーの浅利潮吹く春の昼 四月馬鹿桜の中に目覚めけり 満開の桜の中の俺の鬱 クリスマスツリーの前で読む老子 運歩する山河の空や鷹飛べる 校長の学校自慢桜さく 庭に生ふアミガサダケを盗むなよ ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆  久しぶりの更新。去年の十二月号以来、半年ぶりだ。  ぼちぼちと作り続けていたが、力が入らない時期もあった。  季刊(三か月)では発行したいとあらためて思っている。  もう一度初心に帰り、八十歳少々過ぎまでは句作を続けたい。   目次へ **** 十二月号 (2021年) **** (2021.12.12. 発行) ****** 赫々(かくかく)と冬至の朝日生れけり 火山湖よ水面(みなも)に続く雲海よ まん中に雪の富士ある日本晴 秋天や身内流るる深き河 大股で歩む枯野や八十路へと 黄の蝶の茎にとまりて花となる 宰相の黒いマスクの死んだ目よ 天の川宇宙飛行士犬泳ぎ 疑念なき牛のまなこや秋日和 朗らかに富士冠雪を告げる妻 月光や書物にかこまれ老ゆるわれ なつかしくわれを見つめる冬の牛 花散るや独語のわれの上に散る ご苦労さん生物諸君去年今年 虫の闇われにはわれの真暗闇 満月に輝く庭と山河かな 秋晴や富士稜線を子連れ雲 タブラ・ラサ蜘蛛の囲の張る裏の道 蜩や定年以降の積る日々 女郎蜘蛛殺して長き日永かな しづもれる脳のすきまやキリギリス 何もなき老後の秋の日和かな 山麓の落葉の中やわが方丈 フランス語の寝言聞こゆる冬の夜 落葉踏む音やどんぐり落ちる音 目の裏に紅葉の紅が張り付けり 黒雲のすきま全き月出でり あごに手をあてて居眠り除夜の鐘 名月や特に輝くわが庭面 雪の富士つひの住家の大空に 切株の年輪見つむ老いの秋 生きものとしての晩年大枯野 考へを捨てて歩けば鹿の声 すべらじと落葉と雨の山路かな 森の空宇宙は青し小鳥来る 敦盛草廃墟の庭にひそと咲く 白鳥の口に歌ある渡りかな 宝くじ売場へ散るや金銀杏 木枯しや地よりわきたつさだめごと 心底に燃ゆるものあり去年今年 富士降りる光あふれて冬の海 豪奢なる迷路さまよふ紅葉狩 寒やしやがみて男猫にえさ 枯枝や枯野みわたすモズ一羽 目つぶしをあびて停車や冬夕陽 芒の穂共にゆれゐる齢(よはひ)かな 薄雲の天衣まとひて雪の富士 ぼけ老人演じ電話へ秋の暮 ****以下メモとしての俳句掲載**** 母死ぬや雪の遠野をさまよふ間 大いなる黒き穴掘る秋の暮 草刈機のその先先をカマキリよ パトカーに道譲りたる花野かな テレビ越しただだ見る世間秋の夜 毒茸や背後ひろごるロケ現場 方丈の我が家の空の銀河かな 方丈の空悠然と雪の富士 富士登る道の細しよ雲の嶺 方丈へ行きつくさだめ不如帰 三界は垂直形や雪の富士 ことのはのわれを裏切る秋の暮 寝ころぶや風鈴の音心底を 年をこす見えぬしつぽをひきづりて 大枯野花と咲くパングライダー ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆ (以下一部をのぞき、前号と同じだ。  後期高齢者になって、ややペースをおとすことにしたが、それにしてもおとし 過ぎだ。メモは適当にしているが、四、五カ月ぶりの発行だ。  とにかく八十歳の頃には、最終的に「百八句」にまとめたい。   目次へ **** 九月号 (2021年) **** (2021.8.18. 発行) ******     春うらら田舎暮しの小地獄  (2021年九月号)     山里に響く雉の音雉日和     別荘の廃墟にひそと敦盛草     日本は田植の国や棚田行く     大空を領せし鷹の大翼     新緑や白き椅子あり輝けり     富士塚や屋根の合間の雪の富士     薔薇の花薄絹のごと風に透く     鶯の声(ね)に包まれて我が家かな     梅雨晴間裏の道より沢の音     テレビには見世物俳句秋の暮     巡回す花蜂くんへちと会釈     かるがもの逆さ富士越ゆ水田かな     ひろごれる水田はるかに養老院     青空や傷を隠さず雪解富士     ウグヒスや朝寝の脳を鳴きまくる     ワクチンを終へ正面の雪解富士     零戦のあらわれさうな夏の雲     行く川にそひきて海の海市かな     地底より響きし声か牛蛙     木漏れ日の美(は)しき散歩をいつまでも     古池や亀はわれ見てダイビング     鳶たちの風のサーフイン夏の浜     ホトトギス特許許可局聞き飽きた     酔ふてねて月天心の森の家        免許更新     炎天下認知機能の検査へと     老いといふ経験なしの悪路かな     三島の死老いの拒否なり雪の富士     老年へ備への禅や暮の秋     われ思う故にわれなし富士の虹     留守なのだ天下の秋をわれは留守     光りたる前頭前野夏の闇     裏の道大河のごとし梅雨深し     主張するオオルリ彼のなわばりを     ステイホーム夏草かつてに伸びてゆく     ステイホーム全裸の自然にかこまれて     薬屋に薬の山や春の地震     挫折者の描く寒月方丈記     帰りなむ母の羊水天の川     精霊の目覚の花や合歓の花     朝寝して森の時間の中を浮く     夏暑し静かにならぶ書架書棚     緑陰に車をとめてさて昼寝     妄想も消えてただ大空の雪の富士     地より湧く虫の声にぞ浮く身体     ばちあたりいつしかわれも老いて秋     まれ人に逢ふも枯野や遠会釈     地図なしにわたるこの世や大枯野     宇宙とて将来不明去年今年     一夜かけ鳴くは何鳥夏の朝     たゆたへどしづまぬ地球流れ星     億年の果てのコスモス畑かな     岩かげに難破船ある良夜かな     わが齢実盛こゆか月見草     寝ては夢おきてはうつろ雪の富士 ************************     ステイホームやがて緑にからまれて     羊雲富士の大きな空を行く     胎内の儀式のごとく月いづる     いつだつて時代は冥し五月闇     青空は無限青空秋の風     夏の朝空気出し入れわれ呼吸     帽子もて蝶とらへんと子らの声     わが眼人生四季の冬に朽つ     シヤンゼリゼ歩くは夢かコロナの世     何毀し何を生みたり秋の暮     静かにも心は激す今日の月     内気なるおしやべり少年老いにけり ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆ 久しぶりだ。これでは年二回、半年ぶりの発行だ。  もう少し頑張るか。  目次へ      **** 五月号 (2021年) **** (2021.4.18. 発行) ******     狼がペツトシヨツプでじやれてゐた     永遠に泳ぐ他なき銀河かな     老い老いてなべて幻雪月花     無明なる脳の荒野の初日かな     立春や新緑淡き海の色     舞ひ遊ぶ砂の小人や春泉     鶲(ひたき)来るやさしき空気まとひ来る      シヤンソンや春の森には若きわれ     うつくしきコロナ時代の花吹雪     マスクかけ玄関に出てサインする     鶯の声を聴いてる診察台     戦前のやつらのゾンビかびの花     月光へさらす裸のわが心     大地掴む巨大な根つ子枯葉道     初夢の悪夢の中を歩きぬく       紅富士     夕焼や魔の山然と紅き富士     人生や時にやさしき牡丹雪     わが寡黙見おろしたまふ雪の富士     永遠へ手を振る子らや春の海     「熊注意」怯えて孫や春山路     お薬は次々のどへ春の朝     蜘蛛の囲に殉死の蜘蛛の美しき     われがわれ抜いてしまひぬ春の走(ラン)     山脈の肌やはらかし春の風     梅花藻の流れて揺るる腰美しき     春の川同じはやさで歩かんと     シャボン玉軽きこの世の空をかな     わが森のわがふくろふと決めて聞く     記憶なき記憶の日々や終戦日     枝の雪微塵の光となり風に     見えぬものあたたかく降る春の雨     魂(たま)のごとわがてふてふは天へ飛ぶ     桜散るチエホフをしのぶ若きわれ     富士の闇土地の小桜ほの光る     雪の富士後光数条飛行雲     サルトルもカミユも入(はい)れ大焚火     山峡をゆくや廃村合歓の花     冬眠の覚めし瞼へ花ふぶき     野良猫の糞とる日課桜散る     人生の不思議を思へほととぎす     鶯の美声こだます朝寝かな     散るヤコブの梯子の空をかな     女坂のぼりくだりや桜時     蜘蛛の糸光る一瞬初夏の空     ?の芽を空の光に摘みにけり     絶叫や妻打ちたまふ大百足     すべり台落花をすべり別の世に     春の日の集まつてゐる山里へ    ☆(以下、とりあへず記録、推敲用として残しておく) 別荘とわかる廃屋蕗の薹 窓あふれ侵入せんと桜花 春風は楽のごとくに流れ来る さまよはむ夢のごとくに春の野を 月に吠ゆ犬のやさしき顔(かんばせ)よ 富士山へ雪崩おつるはわが銀河 美しき罪月光の消してゆく 水中の死者へ豪華な夕焼かな 寝て暮らす死後のわれへと落花かな 寒林ややさしき朝日出でにけり 寝転んで富士をみあげるレンゲ畑 立春の朝大袈裟さなくさめかな 厚着して小便器官探しをる ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆ 思いもかけず、発刊が遅れた。最近、作句が進まなかった。耐えていた。思い悩んで もしょうがないので、かつてのネット版の絵本「スェーデンのすべり台」 http://www.haiku-tosasaki.server-shared.com/ehonn2.htmlを両面印刷で印刷し、絵本製 作をしたりしてすごした。 俳句再出発にあたって、次の六人の文に元気を得た。 (1)まず、永田耕衣、橋關ホの文 永田耕衣 俳句理念   (「耕衣五百句」)  卑俗性、俳諧性、意外性を重んじ超時代性・永遠寂寥・野(や)の精神を掲げ、定 型楽守のうちに存在の根源を追尋、観念の肉化による実存的俳句を確立。 <出会いは人間の絶景><孤独の賑い><自他救済><衰弱のエネルギー>などを自 作愛語として、俳句が人生的・哲学的であることを理想とした。 橋關ホ   (「和栲あとがき」)  「荒栲」の後記で私は、「喜びも歎きも、安らぎも苦しみも、病み衰えまで含めて のいっさいに遊ぶことを、ひたすらに願ってきた。句集荒栲も、無辺際に織られゆく 遊びの布のおもてに、たまたま浮き出た微かな模様にほかならない。」と述べた。こ こにいう遊びとは、 囚われない心ざまのことである。粘着を厭う私の生きは、「和 栲」の現在も、いよいよ純化こそすれ、いささかも変わっていない。そうした明け暮 れのおもむき自体を、私なりに俳諧と称しているのである。 (2)次の文も 長谷川櫂    (「長谷川櫂の世界」) 「信条をもって俳句をつくるのは窮屈、イデオロギーをもたず、心のままに作句す る」という。  古典をふまえながら、現代の古典となるべく独自の句風をめざしている。 (3)すでに掲載した三つの文もまた。  「後ろめたさついでに言えば、俳人という肩書がつくことも後ろめたいね。この頃 はみんな図々しくなってえらそうにしているけど、戦前なんかは恥しいぐらいのもの だったからね。だいたい、俳句でいっぱし結構だなんていうのは、一世紀に一人や二 人ですよ。あとはみなジャミ(釣で言う小魚のこと)。そいつらがつっぱって、かっ こつけているのは滑稽ですよ。それに、俳句には専門的な要素なんてどこにもありま せんよ。俳人が専門家意識を持っちゃ、おしまいです。先生、先生つて黄色い声で言 われるのは、いい気分だけどね。俳人という看板を出している以上、この点はしっか りと自戒しておかなければならないと思うね」 (飯田龍太「太陽」1987年3月号)  「見事な技がかえって作品を小ぶりにしていないだろうか。」   (飯田龍太)  「こうして三十年間の句業の跡である作品を調べてみると、作法を決めたくないの が私の作法であるという観を呈している。しかしどの句も、その時の私自身に対して せい一杯忠実につくってきたつもりである。そのうちに、俳句は事前に予定すると成 功し難いという厄介なこともわかってきた。  作法は選ばず、結局私がこだわるのは言葉だけである。俳句という特殊な詩形にの せて、言葉を詩の言葉としていかに機能よくはたらかせるかという興味である。  俳句の場で、言葉、言葉というと、こころを軽視しているととられる。だが作品を なすにはまず何らかの意味でのこころが在り、最後に又何らかのこころが出ていなけ ればならないのは当然である。     (『飯島晴子読本』富士見書房)  「俳句は詩です。詩は言葉でつくります」  「詩はむりなくわかることが大切だと思います」  「俳句という詩は、ほんのささやかな営みですが、セオリーを身につけて、そして セオリーを忘れることが大切です」           (田中裕明)  目次へ **** 二月号 (2021年) **** (2021.1.16. 発行) ****** 森々と森羅万象雪が降る 冬の部屋胸底にあり閉ぢこもる 蜩(ひぐらし)や完熟すすむ我が五衰 煌々と白き魂雪の富士 龍雲を二つはべらせ雪の富士 枯蟷螂さつきは居りし今不在 一切は空(くう)のこの世や初山河 コスモスの花揺れてゐる深宇宙 胸底の枯野と菜の花畑かな 水輪湧く透けて見ゆるは秋の鯉 踏切の鳴るや子供となりて待つ シヤツターにやさしく西日そそぐ街 我が庭のすすきの上の望の月 秋雨や祈り静かに庭の面(おも) 天高しトランプヒトラーと背比べ 蜩の朝鳴き夕鳴く森に住む 遠近の雷や静かに読む老子 ふくろふの観てゐる人の幸不幸 厭離穢土彼岸へ泳ぐ蛇の首 自虐するわれへとつくつくぼふしかな 死に至る病の地球大銀河 わが死後の百年の虫千年の月 やはらかな死体のポーズ夏の森 殺人や証拠物件曼殊沙華 冬の森清々し気を肺胞へ 罪人のわれは幼き終戦日 眼底にじわじわ湧きて大銀河 おもしろきことなき世なり掃納 天高し「ご長寿祝」届きけり 蹲踞してカマキリの死凝視する からつぽのあたまのなかの秋の暮 冬の川沢音蜜語かたるごと ところどこ靨つくりて春の川 一群の破れ薄や空つ風 森の鹿台風一過の夜を鳴く 街師走富士塚登りおりてみる 飽きはじむ落葉の道を楽しとも 光受け雲美しき十三夜 蛇(じや)のごとく不逞な根つこ落葉道 カマキリはバツタの頭爆食中 橋渡りまた橋渡り秋の暮 すべるまじ雨の散歩の落葉坂 寒林の光の中を飛ぶ鴉 北風の独語と叫び聞く寝床 大宇宙始まるこの空初茜 逆さ富士足下に近く雪の峯 コロナ禍やベニスの去年の月の寂(さび) 路はてて激しき崖へ冬日かな 海峡へさしあぐ河豚の一切れよ 枯葉道枯葉踏む音(ね)に包まれて    寒林や光輝く照葉樹 テントより幼児の声の二日かな 霜の庭日に輝きて露の庭 繭ごもる小さな窓や雪の富士 滝落ちてやがて海へと秋の水 残念な死の堆積の地球・冬 ☆ ☆ ☆(参考句)☆ ☆ ☆ 庭に消ゆ蛇の草むら夜は光る 葛の葉の小山をなせる小道かな 富士毛無天子や我が家の富士桜 虻あばれ出発不可能わが車 蜘蛛の囲を次々破りいく行手 日雷(ひがみなり)熊たちあがる山路かな 秋の森奥の暗きに眼(まなこ)かな ゴンドラの波ひたひたと夏の午後 多重事故紅葉の燃ゆる山路かな メビウスの輪の傘雲や秋の富士 柿干して体も干して老いゆけり 大空に光はなちて薄原 流されてみたし秋川のぞきをる 流されてみたき紅葉の絨毯と 冬至の陽浴び椅子に眠る翁かな 名月やはらわたのなきこのわれら いつしかに枯野の舌の上をゆく 冬至の陽浴び椅子に眠る翁かな 名月やはらわたのなきこのわれら 老松は腰に蓑つけ冬に入る 輝ける海見つ歳晩の街の坂 薄原巨大な布団と思ゆる日 秋雨の打つ森おこる交響楽  十二月中旬 雪降らぬ富士黒々と夕暮れぬ 雪降らぬ富士超然をよそおひて 笹揺れて乾きし音の冬の庭 ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆   2021年2月号、久しぶりで発行する。2020年9月号以来だ。 これからは、なるべく2,3カ月に一度は発行したいが、あれこれの事情で、確約はできない。 とりあえずある程度の数の句をあげておく。まだまだ考えたいが、熟成するのをまつために掲載しておくといった面もある。  最終的に、2,3年後には108句にまとめるつもりである。 追補*メモノート散乱、掲載順は、季語では時間順的には狂っている。最後は108句で整える。  なお、 火事なのだ体のどこかが火事なのだ  という句は、「体のどこかが火事」が発想のもとだったが、 「〜のあたりが火事なのだ」という句があると思い、削除した。  目次へ **** 九月号 (2020年) **** (2020.8.26.発行) ****** 灼熱の富士の肌(はだへ)を登るかな 校庭の百葉箱の暑さかな 信長の首塚のぼる蜥蜴かな ベランダの木のサンダルにきのこかな 幸ひは山のあなたや夢見草   夢見草=桜 蝉鳴くやモーツアルトを聴ける窓 いづこへの途上や七十路(ななそぢ)春の風 滝音の青く高鳴る若葉かな 首塚や若葉の香り血の匂い 気の利いた俳句クールや油照り 堂々とくたばつてゐる夏の主婦 飛び跳ねるバツタ先立て草を刈る カツトスイカ買いて夫婦の暮しかな 川風に吹かれて憩ふお盆かな 遠近の雷や静かに読む老子 広がれる3D画像の若葉かな 眼底に若葉ためこみ峠へと 自虐するわれへとつくつくぼふしかな 緑陰を出で青空へ大揚羽 炎天下楕円に近きわれの影 信長の腰掛石へ春日かな 永き日のスピノザ難(かた)しまどろみぬ 濁世の手あらひにあらふ清水かな 厭離穢土彼岸へ泳ぐ蛇の首 新緑に花ぶちまけて薔薇の園 巣を守る相手は鴉黒燕 笹刈りや山百合も刈り妻激怒 夏草や売り別荘の隠れ札 雨戸閉め繭の心に閉じこもる 風光ることに輝く庭の草 揺れてゐる蛍袋の中の蜂 富士にむけ頭突きしてゐる子山羊かな 木陰から木陰へ流浪炎天下 いづこへの途上や七十路(ななそぢ)春の風 万緑の空に伸びゆく山路かな 親の顔みて鳰(にほ)の子のもぐりけり まよひ来ていつか田舎の春の道 若衆の無くば神なき祭かな 老人性掻痒朝から蝉の声 雲間より富士覗きをるバラの園 ヒトラーの変種トランプ神の留守 霧深し森の我が家へ生還す 山百合の肩のさびしき夕べかな 霧深し行方不明の山河かな 夏の日や音符と揺れる木漏れ日よ 梅雨の濡れ石段ためらう齢となる 梅雨の雨天をあふぎて天馬かな 給水器長い廊下の端の夏 夏夕べ並の死体のポーズする 青田うつ雨の水輪やシヨパン曲 くちなしの白き香りの我が家へと ふくろふの観てゐる人の幸不幸 直立の薄の茎の上の花 いづくにか蝉の鳴く木や見つけ得ず 桜貝少年の頬紅潮す ポピー揺る巨石の立てる遺跡群 山鳩の通奏低音夏の森 新緑に心吸はれてゐるところ 死に至る病の地球大銀河 二上を血潮に染めて夕日かな 沢音の響きの中や若葉騒 万緑のど真ん中から牛の列 脳天の閃光轟音日雷 モンシロテフ初めてみたと都会の子 半分は濡れて夕立(ゆだち)の森の道 万緑や昏きより舞ひいづ黒揚羽 蜘蛛の囲を次々裂きてゆく行く手 富士塚にのぼるに汗の滴かな 鳴りわたる滝の鼓動や空の富士 風の道ここなり座る夏の森 湖のそこひに富士と桐の花 人気(ひとけ)なき茅の輪のたてるコロナの日 蜩の朝鳴き夕鳴く森に住む 霧湧くや山河おのづと沈みゆく 白き道白く続きぬわが白夜 わが余生落葉に埋もれ富士麓 ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆    不定期な発行となった。勝手をおわびしたい。  最低でも季刊をめざしたい。  この9月朔日で、満での喜寿ってわけだけど、あんまり悟ってはいない。老荘は好 んで読んではいる。死体のポーズもときどきやっている。  目次へ **** 五月号 (2020年) **** (2020.4.発行) ******     寒林の微動だにせず空気また      春雨や免許書忘れ運転中     つららもて刺したき人のある昔     杉の秀に輝く寒の金星よ     遠近に高さの違ふ霜柱     エアバイク踏みつつ年を越えゆけり     よくすべる落葉の斜面登るはめ     我が頭上大きな宇宙春大地     春光の中を妻来る不思議かな     春の日や光まみれの小鳥来る       善得寺 三国同盟の庭     春の日や駿甲相の石の黙(もだ)     老年や筋トレとなる雪の坂     菰(こも)まとひ松には松の冬ごもり     無言なる宇宙の雄たけび春の闇     梅の香や女房敏感われ愚感     いつか死ぬ諸般の事情冬銀河     眼差しをさらに遠くへ枯野道     冬田越え小学校の唱歌かな     すすき野の沖より我へ大津波     風花や枯木林の華やぎぬ     冬空をかき回しゐる大クレーン     都鳥隅田長夜の水面(みなも)幽(ゆう)     雪の夜や遠くなまめく灯がひとつ     深緑秘め海のごと大雪野     わが死後の風花美(は)しく舞ふ枯野     人生や初詣に行き死せる彼     朧へと身体溶けゆく齢かな     東京や処々に落葉の吹溜り     秋の森地下よりひびく秋の歌     真正面雪の富士立つ駿河かな     初日の出水平線は黄金なす     秋夕べ静かに呼吸してゐたり     哀しみの極みの空や赤とんぼ     去年今年富士こゆるらしジエツト音     光輪のごとき笠雲冬至富士     少年のわれは宇宙へ平泳ぎ     春を待つ老いた少年宙返り     濃き霧や足下に響く滝の音     春の暮カントについて考へない     春の空絶命危惧種の鳥が飛ぶ     おほかみの骨は眠りぬ寒の月     行く春や猫のうんちをふんじやつた     鹿の目に大和の国の若葉かな     やはらかいベツドの雲や春の富士     若芝の無限の緑愛でるかな     タナトスやエロスや日本桜の夜     わが愛でし子犬の墓へ桜かな     川見んと土筆の土手を登るかな     春の森鷺高鳴けり何の意ぞ     富士塚にのぼりて春ををしみけり     閉鎖せる道路の奥の花盛り         春の川息切れしつつそに沿へり     「ちよいとこい」鳴かれどおしの春の里     春の雲白しほらほら白い馬     富士かこむ山の笑ひの中にゐる     森深く落花あびゐる涅槃像     生涯の桜今散れ埋もれん     古池や音なく無数の蝌蚪泳ぐ     見上げゐる無限の宇宙蟻地獄     春の野やまろびて大地に置く頭     鱒池に浮かぶは屍魚や春の風     ざんばらの雪の髪毛や春の富士     桜山ふくれて花弁はき出せり     春の海水平線は萌ゆるごと     若葉より千の糸湧き滝と落つ     コピーする芭蕉書簡や春の富士     水切の軽々とぶや春の川     桜吹雪あびてほほ笑む翁かな     春眠の遠き沖へと泳ぎ行く     春風のさらひゆくもの追ひつけず     大き月右肩にのせ春の富士     君賢(かしこ)語りたまヘよ桜の夜      ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆  後期高齢者になって、ややペースをおとすことにしたが、それにしてもおとし 過ぎだ。四、五カ月ぶりの発行だ。  そのせいで、「「百八句」へ」はまだ整理ができていない。とりあえず発行し、 ゆっくり整理して行きたい。  とにかく三、四年後は、最終的に「百八句」にまとめたい。   目次へ **** 十二月号 (2019年) **** (2019.12.12.発行) ****** 落葉舞ふくるくるぱーのこの世かな 前世は宇宙と思ふなまこかな 水澄むや川底歩むわれの影 コーランと冬の富士ある窓辺かな 雛壇や畦の斜面の曼殊沙華 よくすべる苔の坂なり秋出水 大滝の冷気の奥の霊気かな 幽林や微笑かそけき毒茸 道化師が見あぐる秋の富士の山 老いた修羅ゆく満月の光浴び 耄碌の余生のための俳句かな 青嵐伊豆反射炉の老躯立つ   公園 難破せる海賊船や秋豪雨 薪能はてたる空の秋の月 蝶乱舞花野の空の富士の山 湧水に俗世の顔を洗ひけり 夢さめて寒鴉高鳴く朝かな 夢の中はるかを秋の夜汽車かな 袈裟懸に女郎蜘蛛の囲破る棒 森にゐて旅を続けむ遠紅葉 蟷螂の斧上げ嵐待ちてゐる 秋雨のしづかに濡らす山河かな 仙人のごとく朦朧冬ごもり 我が影もかすみとなりぬ冬ごもり 生かされてゐるのだ暖炉炎あぐ ゆるぎなき影絵の秋の山河のかな ぬれ落ち葉散り敷く山路迷ふかな 近づけば牛たちあがる秋の闇 光満つ野辺初冠雪の富士の嶺 紅葉谷白蛇のごとく水流る スリツパが冬のトイレに待つてゐた 黒雲を破り白雪富士の山 苔むせる大地の底ゆ冬の楽 しづかなる森に吸はるる愁思かな   白糸 千本の滝の裾なす虹の帯 竜雲が雪の富士山巻かんとす   梟は富士を背後にポーズとる 枯葉踏むわが音聞いてゐる寂 青空を映し無情の薄氷 永遠がわたしの秋へ死んでゆく 笊(ざる)漏れの脳へ降りゆく春の雪 銀漢に流されゆけりわが孤独 かまきりをつまんで森へかえしけり 「雲間から富士だ」花野で叫ぶ人 直立や風にゆれてるこの薄 水のみ場作り小鳥を待つてゐる 枯蟷螂また登りこし我が窓へ 枯蟷螂覗くわがやの窓辺より とりあへず宇宙は無限初日の出 冬日浴び毛虫せつせつ歩み行く 裏山に燃ゆる紅葉や富士は背に 富士越ゆるジエツトの響き除夜の鐘 冬日浴びススキとともに揺るるわれ 長き影富士登り行く夕日かな 心の闇きよめてゐたる焚火かな 知を求め鬱になる人雪の富士 もぐり出て首ふり魚のむ鵜かな 暗闇に干柿霊(たま)のごと灯る 散り敷ける枯葉の大地に寝る男 卵産む枯蟷螂と思ひしが 要するに齢をとりけり寒夕焼 烏鳴く枯れ木の空の富士の嶺 落葉浴び踊りだしたる老女かな 紅葉山闇の奥なる鬼の顔 光の波たたへて秋の海となる 落葉して開けるあらたな世界かな 沖つ波秋の日浴びてくづれゆく 枯蟷螂立派に死んで石の上 曼殊沙華背後くつきり黒き富士 傷みたる紅葉それなり輝けり 目つむれば水澄み流る夜の川 美しき枯木に老の初心あり 幻想や血しぶき散れる紅葉山 秋天に雲吐く富士となりにけり 紅葉散る音のかそけき夕べかな 秋天に投げて清(すが)しき心かな 人間はさびしほのかな時雨かな 欲消えてひと時われの小春かな 悪魔的七十六才(ななじふろく)の秋の暮 枯れてゆく山河武骨に未来待つ 登る足止めて見あぐる雪の富士 冬帽をかぶりて富士はひだまりに 大杉をみあぐるそらの冬日輪 溶岩の穴ひとつづつ冬日陰 たつぷりと落葉の中でねむりたし つまづいて雪の坂落つ齢かな 馥郁や倒れて見たき落葉道 雪の富士幻のわれのぼりゆく 燈火(ともしび)や時雨の紅葉妖艶に 冬ごもり夢の奥なる真の闇 モールてふ現代砂漠クリスマス アイス喰ひ富士の白雪見てゐたり 水浴びをして山雀は寒林に ところどころ雪あり樹海さまよへり 北岳をしかと見定む雪の坂 バンゐないはずの川なりバン泳ぐ 笹鳴をインターネツトに確認す 富士の月見あぐる中の一人かな チエーンソー寒林やがて雪の野へ 落葉踏む音川音と共鳴す 花梨の実五六枯野の辺に置かる 落葉踏む音なつかしき昔かな   吊し雲 冬空や龍の寝床を見る一日 ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆  予想していたわけではないが、不定期のきわみの<三ヶ月振りの刊行>となった。 いいわけはあれこれあるが、無理をしなかったということで、まとめておく。 もちろん句作不良が根底にある。  「俳句」についていろいろ考えているが、目下今回発表した句だけとはなさけない。 自分なりに、新しい句を追究したい。   目次へ **** 九月号 (2019年) **** (2019.8.31.発行) ****** 「鹿死体放置禁止」や夏山路 夏祭氷の刃(やいば)に血潮かな 夏の森真白き椅子にわが白髪 源流は若葉したたる所なり      霧の森シテとして舞ふ大欅      その淵を心冷えゆくまで覗く      蜩(ひぐらし)は悲しく喜悦歌ふかな      直角に曲がりて直進オニヤンマ           ベニス、ウイーン旅行 五句 夏の波運河に遊ぶベニスかな      ゴンドラを操る夏の筋肉よ      炎天をモーツアルト像として立てり      白鳥の花の如飛ぶドナウかな      雷光の窓辺ベートーベン旧居      富士そびゆシヤツター街の炎暑かな      日傘さし炎暑の沖に消えゆけり      鴉鳴き妻は鼾の夏の朝      汗のシヤツ枝にぶつかけ夢想かな      「あついねえ」独語の翁に同意する      子供らを集めて淵の水遊ぶ      心の闇侍(はべ)らせ見あぐ大花火      通るたび張りをる蜘蛛の囲まづ壊す      稲穂揺る空ゆつたりと富士の峰      漫然と命山(いのちやま)より眺む富士      天の川流るる中の地球かな      仮面もて紅葉の山をすり足で       ☆ 夏の森鳥言霊(ことだま)と飛び歌ふ 夏富士へ塞翁が馬疾駆する 夏の森綾の鼓の低き音 アクセルとブレーキ人類夏の陣 炎天の荒野をわたる狸かな AIとなんじやもんじやと脳のひだ 雉鳴くやだれかに呼ばれゐるごとし 霧の奥霧の巨人の吐息かな 滝壺に竜宮城を幻視する       輝ける筋肉(まつり)祭の杭をうつ 山の音沢の音ある夏の庭 梅雨の小屋子山羊は母を求め鳴く わが庭に山あり谷あり梅雨の雨 カナカナに鳴かれて長き夕べかな 三光鳥歌ふ森へと帰りけり 西欧の旅終え大和の秋の旅 炎天は山河にまかせ下闇へ 夏夕べ大嘘鳥は低く鳴く 短夜や頭蓋の奥のブラックホール 秋の波あばれたさうな気配あり      かなかなの音(ね)の奔流に浮く我か 言葉にはならないゆえに青山河 ベランダに吊るされ揺るる夏帽子    博物館 炎天の恐竜かぶる帽子かな 行く秋や机上癌センタ―周辺図 ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆          六月号を発行し、今回九月号である。隔月刊行になっていない。  八月末のベニス、ウィーンの旅が言訳になるわけではない。  もう一度俳句についてあれこれ考えていたのだが、考えてすぐ結論が出るわけではない。  その間、能を見ていた。平家物語を初め、驕れるものたちの悲しい運命を含むだけではないが、日本 的一大伝統劇だ。そこに何を見るか、資質がとわれる。  芭蕉の「無惨やな甲の下のきりぎりす」の「無惨やな」は「実盛」にあらわれる。  時代の流行にのった勢力、それはそれでいいだろう。俳句の世界の商業的背景にのった勢力の変転は 限り無い。  合掌。    目次へ **** 六月号 (2019年) **** (2019.6.1 発行) ****** 夏の朝自然(じねん)に湧きて鳥の歌 春眠や空中にわれ漂へる 鶯のむかうをはるか雉の声 豪華なる鵜の着水や春の川 アクセルとブレーキの対老いの春 我が心若葉の風となりてゆく この森の噂出所春の鳥 チユーリップと並んで座るむすびかな 弓なりにコシアブラの枝曲げて摘む 午後二時の廓然無聖春の風 雉鳴けりしづかな心の山路かな 弾け行き初夏の水落つ切岸を 源へ何を訪ねん若葉川 キラキラと時落ち行ける瀑布かな 鳶を追ふ鳶の甘声春の空 観覧車春の空気をまぜてゐる 悪霊の奥に潜みし椿かな なんとなく笑顔ですごす鬱の春 鷹鳩に化したる富士の青き天 今を生くわれの頭上の銀河かな 春風にゆれて真赤なハンギング 若葉山倒木憩ふ力抜き 森の春大器晩成の木の芽らよ 天体は音なく回る春の夜 紅の闇へ落ち行く椿かな 人間は弱くて強い夏に入る 365日連休中の夏のわれ 純白の子山羊二頭へ春の風 田貫湖の大きな富士の四月かな 桜散る夢のなかへも散り来る 異形なる眼が過ぎる桜の夜 白い椅子夏の闇へと沈み消ゆ マス釣りや鱒の強力吾を翻弄 小便の泡の増殖老いの春 抱かれて竹の子くすぐつたさう ゆつくりと春野へ自転車たおれけり その角をまがれば銀河ステーシヨン 廃屋にあたる春日や裏の山 夏祭人波泳ぎゐたりけり 山羊羊馬牛鶏や夏の富士 神の池菖蒲で神馬洗ひをり 緑陰に座して見渡す山河かな 鹿の子や雲の力はむくむくと 闇といふ豊かな言葉春の闇 夏の夜黒き太陽輝けり チユーリップ二本並んで揺れてゐる わが胸の廃墟月光ふりそそぐ 老鶯の朝鳴く夜は夢のなか 寝ころんで浮くや初夏の四畳半 あの若葉越えて青空大宇宙 海底を歩くすなわち樹海夏 大樹の根春の大地をわしづかみ わさび田の水やはらかく輝けり 山笑ふわれらあきらめ笑ひあふ 日月星なべてみえねど三光鳥 森響く宇宙の声や三光鳥 箱庭のごとき我が家やドローン飛ぶ 鰯雲鰯の群れは空泳ぐ 銀杏気根や春の大地に乳と垂る 窓枠へ若葉若葉の我が家かな 木の洞に入りて見あぐる春の空 提灯の火と怪談がやつてくる 死ぬまでは生きるつもりや子供の日 己事究明蛙とびこむ水の音 近道のつもりが遠路秋の暮 浜茄子の花全員がこちら向く 河童忌や老いたる膝の皿に罅 かたくりは夕景に溶け消ゆる花 脳髄をわたる涼風天を富士 良い天気四葉クローバ見つけたり 空青し若葉は集団孤独かな 夏早朝(つとめて)鳥鳴く鳥の時空かな 下闇の涼しき開山六百年 下闇や敗者勝者の列無明 見るべきは見つと飛び込む銀河かな 夏の森黒き奥処と見つめあふ 雲間には富士の笑顔や薔薇の園 ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆  前号の再録になるが、前号の引用の最初の三つをあげておく。  基本を考えるときに特に思い出す文章である。初心回帰への文でもある。  若い人達によんで欲しい文でもある。  「後ろめたさついでに言えば、俳人という肩書がつくことも後ろめたいね。この頃はみんな図々しく なってえらそうにしているけど、戦前なんかは恥しいぐらいのものだったからね。だいたい、俳句でいっ ぱし結構だなんていうのは、一世紀に一人や二人ですよ。あとはみなジャミ(釣で言う小魚のこと)。 そいつらがつっぱって、かっこつけているのは滑稽ですよ。それに、俳句には専門的な要素なんてどこ にもありませんよ。俳人が専門家意識を持っちゃ、おしまいです。先生、先生つて黄色い声で言われる のは、いい気分だけどね。俳人という看板を出している以上、この点はしっかりと自戒しておかなけれ ばならないと思うね」                   (飯田龍太 「太陽」1987年3月号)  「見事な技がかえって作品を小ぶりにしていないだろうか。」          (飯田龍太)  「こうして三十年間の句業の跡である作品を調べてみると、作法を決めたくないのが私の作法である という観を呈している。しかしどの句も、その時の私自身に対してせい一杯忠実につくってきたつもり である。そのうちに、俳句は事前に予定すると成功し難いという厄介なこともわかってきた。  作法は選ばず、結局私がこだわるのは言葉だけである。俳句という特殊な詩形にのせて、言葉を詩の 言葉としていかに機能よくはたらかせるかという興味である。  俳句の場で、言葉、言葉というと、こころを軽視しているととられる。だが作品をなすにはまず何ら かの意味でのこころが在り、最後に又何らかのこころが出ていなければならないのは当然である。」                     (『飯島晴子読本』富士見書房)  「俳句は詩です。詩は言葉でつくります」  「詩はむりなくわかることが大切だと思います」  「俳句という詩は、ほんのささやかな営みですが、セオリーを身につけて、そしてセオリーを忘れる ことが大切です」                           (田中裕明)    目次へ **** 四月号 (2019年) **** (2019.4.1..発行) ****** 迂闊にも歩き脱ぎして初湯かな わが庭のわれらへ手を伸べ桜かな 毛づくろひしつつ流さる真鴨かな 立春の野辺の光に遊ぶかな 枝寄せて梅の香をかぐ翁かな 滅びたる無名の領主春の富士 飼ひならす虚無や天空朧月 むつつりと富士を見てゐる桜かな 啓蟄やベツドより落ち目覚めけり 憂き人の満面笑みの桜かな 小鳥くる森の老いたるフランチエスコ 革命のあとの幻滅春の虹 赤ゲラの雄たけび猛き春来たる 悠然と春は登るよ駿河富士 青空や一壺の天の春の富士 桜咲く子供や孫へはoui ouiと 桜浴ぶいつか来る日を思ひつつ 花散るやモグラの小山桜山 消防士ロープを渡る春の空 漂へる富士天にある朧かな 花吹雪億年の闇流れゆく いくたびも目覚めて長き春眠を 森の奥桜花散る鳰の池 避難塔より見る凪の春の浜 避難塔登りてはるか雪の山 独裁者四方に雑居春の闇 老人を敵と言ふひと石鹸玉 点として地上のわれや鳥帰る 矢印を曲ると見事な桜かな 菜の花の黄の輝きの中の富士 春の川夢みるごとく玉藻揺れ 乱舞する春の鳥らにとりまかれ 疎林ゆく菜の花の黄と白き富士 山桜旅客機富士を越えゆけり 街路樹の木々の若芽や老いの春 真白き煙を春の汽船かな 流木の龍吟ひびく春の浜 流木に憩いてながむ春の海 雨戸ごし鶯鳴ける朝寝かな 春風や牛草上に瞑目す 島のごと浮く伊豆半島や桃の花 天体の輪廻転生去年今年 雨戸開け春の風入る朝かな 熊笹の揺れて春来る神が来る 春風を受けて立つ岡富士足下 水鏡春風富士を乱しけり 銅像と会話の男春の風 腹ばひて大地の春の鼓動聞く 牢獄としての身体春の雲 天空に春の富士ある春の浜 声甘く鵯鳴きかわす春は来ぬ 生命維持装置はづせり春の夢 大いなる仮面の裏の春の園 病院の待合室に時雨けり 眼球をやわらにたたく春の風 覆ふごと桜花散る遺跡かな 春の浜春の鴉がかあと鳴く 桜満ち一見ことなき憂き世かな 幕あがり無明のもの出づ桜の夜 菜の花や首をふりふり雉通る 若芝やまだ裸木の黒き影 窓に富士富士の写真をコピーする 青空に溶け込んでゐる春の富士 富士統べる桜満開浅間社 わくたま 湧玉池や湧きたち出づる春の水 春の空ジエツト轟音かき乱す 苔庭となりゆく庭の苔の春 永劫のその一瞬を春の滝 春の森歓び秘めて肺呼吸 春の鯉水面に口開け大あくび    ☆ 大富士へ銀河ながるる駿河かな ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆  句作していても、なんとなく調子がでない。今月号は無しにしてなど余計なことも考えないわけで もないが、病や死がない限り八十歳近くまでの長丁場の予定だ。少しずつためてゆくほかにないと思い 発行する。  その後時をかけて推敲すべき句を置いておけるということは個人誌ならではできうることかもしれな い。  さて、「俳句心得」と称して、俳句関係を中心に幅広く読書のメモを、間歇的に行っている。ワープ ロのメモは「ワード」百枚を越えている。心を引き締めるためにも、最近のメモから時間的に近いも のから順に、いくつか引用してみよう。  その前に、取り込みは比較的古いが、ぼくにとって大事なメモを三つのせてから、始めることになる。          ☆   ☆   ☆  「後ろめたさついでに言えば、俳人という肩書がつくことも後ろめたいね。この頃はみんな図々しく なってえらそうにしているけど、戦前なんかは恥しいぐらいのものだったからね。だいたい、俳句でいっ ぱし結構だなんていうのは、一世紀に一人や二人ですよ。あとはみなジャミ(釣で言う小魚のこと)。 そいつらがつっぱって、かっこつけているのは滑稽ですよ。それに、俳句には専門的な要素なんてどこ にもありませんよ。俳人が専門家意識を持っちゃ、おしまいです。先生、先生つて黄色い声で言われる のは、いい気分だけどね。俳人という看板を出している以上、この点はしっかりと自戒しておかなけれ ばならないと思うね」                   (飯田龍太 「太陽」1987年3月号)  「見事な技がかえって作品を小ぶりにしていないだろうか。」          (飯田龍太)  「こうして三十年間の句業の跡である作品を調べてみると、作法を決めたくないのが私の作法である という観を呈している。しかしどの句も、その時の私自身に対してせい一杯忠実につくってきたつもり である。そのうちに、俳句は事前に予定すると成功し難いという厄介なこともわかってきた。  作法は選ばず、結局私がこだわるのは言葉だけである。俳句という特殊な詩形にのせて、言葉を詩の 言葉としていかに機能よくはたらかせるかという興味である。  俳句の場で、言葉、言葉というと、こころを軽視しているととられる。だが作品をなすにはまず何ら かの意味でのこころが在り、最後に又何らかのこころが出ていなければならないのは当然である。」                     (『飯島晴子読本』富士見書房)  「俳句は詩です。詩は言葉でつくります」  「詩はむりなくわかることが大切だと思います」  「俳句という詩は、ほんのささやかな営みですが、セオリーを身につけて、そしてセオリーを忘れる ことが大切です」                           (田中裕明)         ☆   ☆   ☆    「五七調最短定型の力を知れ」  「五七調最短定型の力の表現力」が、その強靭さが、本当には ―― 体(身体)ではわかっていな いのだ。  季語はこの定型があって生きる。                    (金子兜太)  私自身は、実作でも、文章でも、貧しい弁解のことより出来そうにないが、いつの日か、コセコセし た条件など無視して、一種の神通力を具えた女流が出現しないとは云えない。男性諸賢の公式論を地上 のものとして、ある日、突然、超大型女流俳人が菩薩の如く雲に乗っておごそかに現れる景を、私は夢 みるものである。                      (飯島晴子「上流俳人の抱負」)  詩とはなにか。それは、現実の社会で口にだせば全世界を凍らせるかもしれないほんとうのことを、 かくという行為で口に出すことである。             (吉本隆明『詩とはなにか』)  遊ぶ   無窮に遊ぶ  造化と共に遊ぶ  (荘子)   「芸に遊ぶ」  芸はすべて文化にかかわることをいう。  遊ぶとき、人は無心の境地となる。最も無心のとき、人は最も神に近づく事が出来る。  一芸に遊んで、その一生を送ることが、できるならば、人生の至福、これに過ぎるものはないという べきであろう。                                (白川静)  「わたしは、ありふれたものから詩をつくりたい― それを見て誰もが、同じことが自分にもできる と楽観し、実際に試してみて大汗を流し、無駄な努力を費やす羽目となる、そのような詩を狙いたい。 語の組み立てと結びつきの力はそれほど大きく、万人の共有物から取り出してきたものにはそれほど大 きな栄誉があたえられる。」                      (ホラティウス)  「現代俳句は(中略)卓越な表現を得ようと躍起になっているようにさえみえる。俳句はわずか十七 音。しかし、天がほほえんでくれれば、その何倍もの無限に広がる世界をとらえることのできる詩型で ある。」                                  (長谷川櫂)  密なるもの語る声は静か                           (梅原猛)  芸術の嘘はそれが巧であれば、現実よりも現実性が多い  優れた芸術は優れた嘘なり                   (西東三鬼 「自由人日記」)  詩人とは、本来存在の言葉の実存において永遠の原典の中に書きこまれている神秘の言葉の解読者で ある。                                 (河原枇杷男)  昨日の我に飽きたり                           (森川許六)  表現とは自己主張ではなく「自己解放」                  (失念)  伝統俳句が(芸だけは十分持っても)良心を持たない偏狭な文学となっていると見なされていたのに 対し、兜太のみは良心を持つ文学と考えられたからである。             (筑紫磐井)  詩は空想の世界を描き出すのではない。もう一つの次元を顕現させる営みに他ならない。井筒にとっ て詩人とは異界からの旅人であって、彼らが詩に刻むのは、いつも「故郷」の風景である。                                (『井筒俊彦』若松英輔)      目次へ **** 二月号 (2019年) **** (2019.2.1..発行) ****** 北岳の槍突き立てり甲斐の冬 飛行機雲輝き雪の富士越ゆる 眼下には輝く冬の駿河湾 天地は幽明落葉時雨かな ベランダに死にしカマキリ草むらへ 疥癬の狸よこぎる秋の庭 快眠の冬の枕を給ひたし 山河またただよふものや霧の海 人の訃を妻聞いてゐる冬田かな 草紅葉寝ころび背中掻く白馬 廃村や伸び放題のお茶の花 雲去りて頂は雪光の野 熊笹の奥ざわざわと年の神 天翔ける禿の女神や去年今年 シヨーウインドウ子犬はしやぐや街師走 わが影の富士のぼりゆく大西日 雪煙上げゐる富士へ祈ること 沈黙の力を思へ寒北斗 大空を冬の太陽一人占め 渋滞やたつぷり冬日浴びゐたり 初山河真中ゆつたり雪の富士 まつすぐに枯木の林とぶ小鳥 飛翔しつ定家葛の白く散る 身長の縮みし我の初日影 森の家冬眠深き我が身かな 輝ける照葉樹林初日受け 元日の日当たる森の白い椅子 元日や神社の手水で初うがひ 寒気住む二階に本をとりにゆく 元日や富士牧場のウエスタン 猪は眼下の山路まつしぐら 初空や富士澄み心澄みにけり やはらかに粉雪降れる森の寂 宇宙とは巨大な書籍福寿草 山麓やプールただいま凍結中 句を詠むは一つの狂気雪の富士 めくるめく長き階段初詣 大空ゆ富士越ゆ鷹となりにけり 馥郁と寒の泉は湧き続く 磨硝子上部透明初御空 寒山路飛び出す栗鼠を轢きかける 山枯れて狸や栗鼠に出会ふかな 冬薔薇輝く海に顔向けて 大寒や桜花咲く道へでる 枯芝の輝く空を雪の富士 雪山へ対岸の人消えゆけり 空谷の荒野を冬の自由人 枯木山風のいざなふ離人症 初日さす結露の硝子に書く言葉 滝の空両翼ひろげ雪の富士 寒林や卒塔婆小町の風の声 枯木林仮面のままに謡ひだす くつきりとレモンのごとき寒の月 細胞は生死をやめず去年今年 去年今年自己薬籠中のもの皆無    ☆ 矛盾的自己同一や雪月花 ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆  更新は、この個人誌に集中する。    仏教、老荘、読み残したものは多い。あまりあれこれやれるものではない。残りの人生を考えている。  全部ではないが年賀状に、次の文を入れたものもある。  「後期高齢者になりました。虚子の句につぎのようなものがあります。    不精にて年賀を略す他意あらず    それにならって、来年の年賀状は失礼します。よろしくお願いします、」    目次へ **** 十二月号 (2018年) **** (2018.11.2..発行) ****** 天高し心は地球俯瞰する 正面に雪の富士ある家路かな 冠雪や富士総身の青く冴ゆ 雲裂けて輝きいづる富士の雪 秋の夜や森の奥処を黒き波 秋の昼畳寝てゐる四畳半 秋の昼空気寝てゐる畳かな 雲海や水平線に神の嶺 秋雨や透けて見えたる富士の山 冬晴れや手を当て欠伸の美(は)しき巫女 水面に紅葉燃えゐる一湖かな 富士塚に大きな洞秋の闇 わが内の一本桜狂ひ咲く 黄金なす稲穂の波を泳ぎゆく 紅葉燃ゆ老いの心の片隅に 冬の森闇に浮き寝のわが身体 月光の薄絹まとひ山河かな 立冬の光はなちて滝落つる 天空は巨大な時計冬に入る 横浜のビル街の川浮き寝鳥 横浜や山吹色の大き月 夕暮が紅葉を囲み閉しけり 人間のゐない宇宙の果ての冬 霧の奥非在しづかに実在す 冬の森至福の朝日さす我が家 白鳥のこない湖浮き寝鳥 薄野は夕日吸込み光るかな 迷路となる道の奥なる笑ひ茸 鹿の音は昨夜銃声ある真昼 剣カ峰光り増したり雪の富士 紅葉は闇に血潮のごとく消ゆ おのづから四方明るき無月かな 神不在われは未完や秋の暮 人形の眼へ釣瓶落としかな 故里や廃寺の鐘のひびく秋 光浴び水を浴びゐて小鳥なり わが湖へ今着水の真鴨かな 狂ひ花明るく無垢に咲きにけり 月下行くおどけ調子のわが影と 木漏れ日の小人や踊る秋の森 白糸の滝の糸揺る秋の風 ドングリを拾ふ老いたる子供われ 長き夜や夢は黒白抽象画 鉄棒にぶらさがりみる師走かな 「健康」の諭吉も死せり秋の暮 月光や森の奥より鹿の声 夕薄ことに一本乱れ揺る 美術館窓のそとなる濃紅葉 番犬のうつろな眼秋の暮 スズメバチ薬殺そして埋葬す 枯花野黄蝶白蝶まひあがる 空間が固体となりて罅割れる 轟音の中にわれあり七つ滝 モールなる迷路歩める師走かな 雪降れりふざけこころのわが上に 黒雲(こくうん)を裂きて黄金(こがね)の初日かな ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆  いろいろ考えることが多いが、今回は書かない。結局自分なりの精進しかない。    目次へ **** 十月号 (2018年) **** (2018.10.2.発行) ****** 天高し背筋正して富士の山 富士の闇知りつくしたる清水汲む 違反切符切られてゐたり鰯雲 万緑やわが肺臓の濃緑に 靴紐をむすぶ舗道や秋の草 犬かきをしてゐる亀や堀の秋 釣りあげし鱒の力や青嵐 金木犀大樹に風や立眩む 紅葉谷眼下巨大な黒揚羽 光輪やうろこ雲ゆく望の月 幻想の友を待ちゐる花野かな 秋の野へ秋の丘よりすべり台 声あはせ小鳥の来たり森の家 夏草や埋もれて宗匠俳句の碑 無と有とあひむつみゐる秋の暮 秋の夜の脳の闇ゆく夜汽車かな 夏帽子ころがる合戦跡地かな 滝の音川霧となり流れゆく 月のぼる山の端小さき声をあぐ 夏帽子脱がずそのまま考へる 我が庭を巡回中の鬼ヤンマ ぼうふらの水ぶちまけり炎天下 秋の朝小綬鶏一家の散歩かな 秋の夜や貨物列車の遠汽笛 秋の森穴あり飛びこみ考へる 震災忌後期高齢者にわれなれり 透明の闇輝ける熟柿かな 秋の夜や針のすすまぬ大時計 寝転んで足の指間の秋の富士 四方にゐる獣の見えぬ秋の山 棚雲のたなびく秋の富士の山 たなびける雲幾筋や秋の富士 富士の秋さまよふ後期高齢者 脳髄が秋の夜空となりにけり 平凡な日々天空の銀河かな まつ白い眠りの国の秋の暮 関東や空の奥処に鳴く雲雀 西日浴び古代ローマの詩集かな 妖怪の闇を隠して秋山河 銃音のきこゆる秋の別荘地 滝の音きこえてみえず時鳥 図書館の迷路出でけり鰯雲 富士見えず初冠雪と言ふテレビ 走るたびまいたる落葉またちれり 秘密あり秋青空のわが脳(なづき) 大風に乗りてトンボの迅き飛行 休校の孫の笑顔や台風裡 わが庭の落葉道化師肩へ舞ふ 落葉踏み林の鼓動感じをる 若芒きらりと刃光らせて 初秋や薄の刃われに向く 欠伸して人を恋ふなり夜の秋 秋天の空気をすべるトンビかな 迷宮の落葉の道をあの世まで そのあたりトンボ飛び交ふ空の辻 片隅や世界見てゐる笑い茸 幻想の友が手をふる枯野かな 息を吐き息吸ひ秋に入りにけり 白き帆が秋の海ゆく頬に風 秋の森和敬清寂空の青 初秋や六根清浄ひびく森 秋草の真中腰据え考へる 秋の雨しづかな水面穿ち消ゆ 秋愁の心運びて富士見あぐ 黒き幹支へる緑黄変す 虫取りの役は任すよ女郎蜘蛛 気がつけばわが足吸へる秋の蚊よ 尻の黄の輝く蜘蛛をころさずに 初秋や河口濁りて沖青し すでになし波寄す白浜あの秋の 台風の来る静けさを庭の木々    ☆ 死に体で浮かぶプールや雲の湧く 浜熱砂海賊船の錆錨 夏帽子ぬぎつつ笑みて詐欺師かな 夏草の茂りのなかに置く身体 滝の前百の蝶々湧き上がる 枯野ゆく男歌へる第九かな 単純な生はよきかな雪の富士 あやまちを繰り返しさう去年今年 賢者たる人を尋ねて枯野かな ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆  夏は結構いそがしかった。この数日はパソコンがパンクして、発行日も遅れ、やや疲れぎみ。  後期高齢者になったこれからは、すくなくとも実作を中心としての生活にしぼって、ホームページは 個人誌以外の項目の更新は、控えておきたい。(唐突的に更新したくなる場合は除いて。)  最近芭蕉が色々思われる。昔から気になっていたぼくに訴えかける芭蕉の短文を二つだけ、ひいてみ る。引用は、復本一郎さんの『新・俳人名言集』(春秋社)、芭蕉の二つの名言全文と復本さんの解説 の文の一部を勝手に引用する。  俳諧は無分別なるに高みあり。    (芭蕉は「理屈」を嫌ったので,いきおい「無分別」を称揚することになるのであるが、実作者 にとって「無分別」とは、そう簡単なことではない。)  点者すべきよりは乞食(こつじき)をせよ。    (人の作品に批評を加える暇があったら、「乞食行脚」をして、鍛錬に励めよというのであ る。)  個人雑誌発行者の手前味噌的な引用になったかもしれないが、心して受け入れたい言葉である。     目次へ **** 八月号 (2018年) **** (2018.7.31.発行) ****** 万緑や一鳥雌を求め鳴く 緑陰や古武士のごとき一墓石 ピヨンピヨンとうさぎ跳びして烏の子 五月雨や湧玉池の澄みわたる 三光鳥ひと月鳴けど姿見ず 爽やかに青田の波や空の富士 緑陰の社や柏手孫のため ベランダに我待つ靴や夏の朝 森といふ大き緑の日傘かな 森の奥鈴のごとくに泉鳴る 青嵐木々は腕ふり歌ふかな 荒梅雨やさびしき歩道橋渡る 万緑はわが肺臓や深呼吸 白雲に黒き台形夏の富士 草原の輝きの空夏の富士 せせらぎや空に炎帝君臨す 鳰二羽の浮きて顔見て鳴きあへり かなかなの振動受けてわが脳(なづき) 愛鷹や背後口開け夏の富士 山百合の見下ろしてゐる関所かな 万緑や箱根の湖は力増し 異国語の飛び交ふ避暑地バスの中 片影や老いたる人ら犬散歩 夏の真夜玄関ベルがなつてゐる 苔として積もる時間や杉並木 万緑や真白きてふの白く舞ふ 熱血や炎天の地のさざめごと 青嵐森の命の鼓動かな からつぽの頭をさらす夏山河 しづかさや杭の先なる赤とんぼ 姿勢良く鵯の水飲む泉かな 陽炎の底から湧きし女かな クチナシの香に漂える我が家かな 億年の化石としてけふも炎天下 山羊二頭角突きあへる雲の峰 黒揚羽滝の空にて濃紫 水落ちる夏の光ををりこんで 片影をゆくまぼろしの人の影 ああ太宰水中深く泳ぐかな 真中の水の円へと滝落下 鴉群る巨大寺院の夏の庭 荒梅雨やノアの箱舟さまよへり 若き日のほのかな野望雉の声 瓦礫野やしづかに満てる草の花 湧水の砂の円舞よ永遠にあれ 白百合や影輝ける黒揚羽 夏草や百年たちし傘屋跡 炎帝は大きな薔薇の蕊見据ゑ 葛の葉の焼ける山道登りゆく 滝へ下り涼しさここにきはまれり 滝飛沫我らが体貫通す 白紫陽花赤く浮きたる夕べかな 画眉鳥の水浴まこと憎らしき わが足をからめとらんと山帰来 炎天の大地に点として渇く 頭蓋なる脳にびつしり黴の花 炎天や無言の牛と野を渡る 水に映ゆ紫陽花しづかに光初む わが庭を巡回中の鬼ヤンマ 下闇や熱き孤独をもてあます 夏落葉かぶりてゐたる無聊かな さすらひの途上の富士山登山かな 黒々と緑深まる夏の昼 俳句界バベルの塔か富士登山 万緑やその下闇の奥に死は 涼風やしづかに舞える白き紙 蝉しぐれ足下を水は軽やかに 草原の輝く空の夏の富士 雲間より神の光の夏野かな カーテンの背後万緑揺れてゐる 人くぐる茅の輪くぐりをわれもまた 新涼や老いの心に燃ゆるもの 水蜘蛛で銀河を渡る忍者かな 万緑やちいさな家にわれらすむ 寺町に檸檬買いたる昔かな 忘れ物手渡し夏は終りけり 夏草に埋もれてゐたり火消壺 夏草の荒野さまよふ蟻二匹 涼風へ魂と脳あづけをく 集中力失速鳴く蝉見つからず ほうたるの消えて現れ闇に消ゆ この我が熱中症にかかるとは 蜩の大波小波森を超え わたくしの影がつまづく月夜かな ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆  あらためて俳句の基本を、そして自分なりの俳句を創造的にと考えてやっているつもりだが、なかな か焦点が定まらない。まだまだまだである。あれこれやっていく中で出会いを待つしかないのかもしれ ない。  さて遅ればせながら、『なぜ世界は存在しないのか』(マルクス・ガブリエル)という本が読書界の 一部で話題になっていることを知った。さっそく図書館で借りた。  本書は「世界は存在しない」という衝撃的なことばで話題をよんだ。要するに「世界は数多くある」 というわけで、各人が各人の目で世界をみているだけで、「「世界」と呼べるひとつの「全体」はない」 ということらしい。いってしまえば、そう驚くことではない。そこから全体をどうみていくかが、問題 になるのだが、饒舌な文をたどっても、結局はよくわからない。  俳句についていうと、それぞれの俳句観はありうるが、これといった「ひとつの絶対な俳句世界」は 存在しないということになるのだろうか。勿論、五七五、季語、切字といった俳句について俳句の先生 が自信をもって語る基本はありうる。だが実際はこれらを超えた俳句の世界もありうるのだ。かつて現 代俳句協会から有季定型派の俳人が分離するかたちで俳人協会が設立された。その後虚子の「花鳥諷 詠」の理念継承のもとに日本伝統俳句協会も設立された。  ぼくも「鷹」で同人になったとき、俳人協会か現代俳句協会の会員へ推薦する連絡をうけた。「鷹」 はベテランでは現代俳句協会が多かったが、若手を中心に俳人協会への加入者がおおくなっていた。ど ちらかを選ぶべきか、党派の苦手なぼくは、結局会員への推薦は受けなかった。  もっとも、これといった「ひとつの絶対な俳句世界」は存在しないと言いきってそれで解決できるも のではない。自分なりの句をつくる困難に毎日直面している。日本の「極めて短い詩」と言っても、具 体的な解決策にはならないだろう。句作を通じ自分で考える他ない。    目次へ **** 六月号 (2018年) **** (2018.6.12.発行) ****** 春の水集ふや田園交響曲 逆さ富士頂上あたり蝌蚪元気 古墳なる小山や青葉若葉萌ゆ 旧縁の神童に会ふ花野かな 革命や桜のはなの思はれて 草莽や風に散りゆく桜花 雉鳴くや菜の花畑の上を富士 青空に大き富士ある土筆かな 菜の花の水平線や富士の峰 茶の若葉輝く空や富士の山 春の夜や浮寝をしつつ登る富士 舞ひあがり雪ふるごとく桜花 信仰の道信心の春の蝶 鶯の「ナイスツーミートユー」と鳴く 諦念や若木にからむ絞め殺し 廃村の洞大きく桜かな 雉の声四方に響く春田かな 百千鳥一鳥われを呼びをるか もつれあい滝の空へと蝶二頭 滝の上に若葉輝く空を富士 春月の光たよりに鍵穴を アルバイト葵祭を演ず興 藤棚や手荒な蜂を横目にて ビル街の奥の舗道の春の草 蠅叩き手元逃れし蠅ほめる 総身に桜浴びゐる妊婦かな スランプや小さき菫しやがみ見る ハルジオン茎折りのぞく春の景 薔薇の苗薔薇の写真がかけてある たつぷりと春日を浴びて庭はあり 草に寝て雲雀の昇天応援す 翡翠の水を突き刺す翠かな 滝落ちて途中の岩は上りゆく 万緑や円天井を蝶昇天 くさめして春大空の隅(すみ)揺する わが庭の花粉まみれの車かな 片影を影が行くなり弱法師か 新緑の輝くベランダ読書かな 大群のうごめきお玉杓子かな 柿若葉眩しや背後富士眩し そこにゐる透明人間初夏の風 春日浴びつくして亀は動き出す はるかなりあの初夏の風の色 新緑や忍者のごとく黒揚羽 花粉掃き座るベンチや空の富士 新緑や空の海ゆくくじら雲 ソーラーライト手元にもちて螢見に 花の苗植ゑる耳へと三光鳥 富士山の雪渓見つむ大暑かな 木下闇抜けて輝く富士の峰 荒梅雨の屋上駐車場満車 人生は浮沈の世界背で泳ぐ 新緑や付喪神住む藁農家 野茨や冨士見ゆ教会廃墟へと 万緑や売り物件の続く里 富士映す棚田の今は植田へと 水たうたう山田錦の植田へと 時鳥萱新調の旧庄屋 筒鳥の音(ね)が脳髄に響くのだ 新緑のかなたの海に目を休む 島のごと伊豆を浮かべて春の海 万緑や瞳のごとき一湖あり 大揺れの小揺れの薔薇や薔薇の苑 水浴を終えて山雀(やまがら)水をのむ 荒梅雨の雨の尖りて打つ水田 梅雨晴や水田の光の畔歩む    五月二十三日 キスの日と告げるラジオや若葉風 万緑や円天井を光の子 初夏の光に満てる街あゆむ 夏青空ぼくの大脳浮かびをる 体内へ雪降る初夏の目覚めかな 草露が飛びついてくる夏の朝 ベランダや四肢伸ばしをる夏の猫 富士襲う雲の龍なり口開けて 薔薇園や香りの中の笑顔かな 三婆(さんばば)の薔薇の香りに哄笑す 足踏みのかたまりすすむ運動会 地球に生(あ)れそこに死にゆく朝寝かな 横泳ぎしてゐる鱒に死は巣くふ 人を待つ車内冷房兜太読む 夏の街わが影右へ曲りけり 二百年桜や石斛咲きにけり 罌粟咲きて杉菜の原を可愛くす ベツドよりわが魂飛べり星空へ 現住所遠しと思ふ銀河かな 認知機能検査安堵や夏の雲 諸鳥に眠りの扉あけられて 下闇や木漏れ日あふるるあの方へ 雪渓の光を受けて薔薇の花 まつとうな道をはづれて新世界 富士見ゆる雨やわらかき薔薇の苑 万緑やいづくか秘密ねむつてる 一葉も動かぬ夏の朝の森 かき氷富士山頂にかけてみん 羽根はえて異界に飛び立つ余り苗 青鷺の喉(のんど)をおつる鱒なりき 夏の朝くらげのごとく空に月 軽鴨の子らチヨコマカと初夏の川   ねころんで 夏の朝ベッドと別のぼく森を 夏の森富士を越えゆくジエツト音 夏の朝一花美し一行詩 夢の世や張り子の虎の頬つつく 真実は霧の彼方のその向かう 谷深く真澄の泉湧きにけり 郭公の耳底に響く朝の床 加古里子求め図書館梅雨晴間 春山路まよひて異郷それなりの 初夏の日の波紋の美しき湖面かな 更衣表皮の変化すすこしづつ 夏の庭一草一木輝けり 地に臥してこころ緑にとけてゆく 梅雨晴や庭の草刈る残す花 森の朝百千鳥の歌ふりかかる 夏祭ゼニガメ買ひて飼ふつもり 緑陰や大地に座り読む老子 炎天下むくどり闘ふ雌のため 深酒の夜はしらじらと大銀河 歯の浮ける君の賛辞や桐一葉 ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆  ここのところ句作にややマンネリの感じもしないではないが、耐えることだ。一方、変化への兆しが、 ただよいはじめている感じもあるが、まだまだまだだ。漠然としている。  大学にはいったころ、三冊の本がぼくに強烈な印象を与えた。  パッペンハイム「近代人の疎外」(岩波新書)、コリン・ウィルソン「アウトサイダー」、そして、 福永光司「荘子」。  「近代人の疎外」は政治などの堕落を思うたび浮かびあがってはくるが、「アウトサイダー」は はるか昔の思い出のようになっている。今だに引きずっているのは、荘子だ。  その後今でも、その世界につながる書物、たとえば禅、老荘の書をなどは読んでいる。フランス文学 では、モンテーニュに通底するところがある。  荘子の書の中で、特に印象的な場面は「混沌」の章だった。初心に帰るためにも、現代語訳を引用し て、この後書きを終えよう。  「南海の神を◇(シュク 漢字)といい、北海の神を忽(コツ)という。中央の神を渾沌(コントン)とい う。◇と忽があるとき、渾沌の治める土地で逢うことになった。渾沌は彼らをとても良くもてなした。 ◇と忽は渾沌の徳にお礼をしようと相談して、語り合った。「人間には皆七つの穴がある。それにより 感覚し、食べ、息をするのだ。しかしこの者にだけはそれがない。試しに渾沌の体に穴を開けてあげよ う」と。一日に一つの穴を開け、七日目に渾沌は死んでしまった。」     【◇(シュク)は目下漢字表示が困難。】    目次へ **** 四月号 (2018年) **** (2018.4.5. 発行) ****** 桜山老樹の花の蕊の燦 白き桜わが家をめぐり浮く夕べ 窓枠の内は日本画桜の夜   地球はいつか絶滅すると 絶滅は桜吹雪をあびてから 胸の上春の星ある地球かな 順番を待ちて餌をとる春の鳥 キリストはいつものお顔カーニバル   四十雀は普段遠慮がちだ 山雀に挑む四十雀繁殖期 さへづりや父母のなければわれもなし 春天や浮かびて富士の白き雪 山肌は空の色なり春の富士 梅の香や天の高みを富士の山 林尽き切岸よりの春の景 若葉着け大樹の洞の深き闇 風狂や春の落葉は踊り舞ふ 邯鄲の夢のさめたる桜かな ぼんぼんと昔時計の春の夜 四方より来餌(えさ)競い合ふ春の鳥 春の朝湖の沖ゆく一人鴨 美しき虚空の遊ぶ春の野辺 春の蝶枯山水の山河こゆ 水草のビロード揺らす春の水 水音の高まるあぜ道春をゆく 遠景やときどき落ちる夏みかん 春の朝森より満ちて来たるもの 亀一族つどいて春日あびてゐる 決意してぶらぶら歩く春の野辺 照葉樹かがやく春の朝日浴び 森の空春の小鳥が降つてくる 春風や笹藪神経ふるはせて 小綬鶏の家族の散歩春そぞろ 新築の縄文住宅春の風 カモシカはテラスの下や春の雨 桜散る谷の底ゆく修羅の列 黒土やしづかに眠る落椿 わが影がくる春昼の森の道 大空に春の富士ある脂肪かな 芽吹きたる春の枝枝鳥舞へり 老年や心の皺に散る桜 眼据ゑ勘助坂の椿かな 笹たちのミニマル楽のひびく春 春の森つぶてのごとく小鳥たち 正面に春の朝日やわが林 腰だまし耕す春の黒き土 光満つ春の畑に鍬おろす 春風やビル街なればビル風に 巨大なる器を俯せて春の富士 春の闇われらそれぞれ島宇宙 春を待つ剪定薔薇の棘たちも 半島と島を浮かべて春の海 白糸の端の風流小滝かな 落花する春の水なりわが眼下 命山命の土筆伸びゐたり 沖よりのひかりを浴びてシヤボン玉 春憂ひベランダの椅子そのために わが涅槃春のベツドの上にかな 春の風森に生まれて吹き来る 曇天や真紅の椿重く散る 菜の花の中に富士立つ安堵かな わが庭を一日照らして春夕日 紅梅と白梅ともる靄の中 春雨や欺瞞の議事堂傲然と 春雨や官邸にらむ一警官 めまとひや国会議事堂見えず居る   皇居 堀 水面を拝するごとき桜かな   池袋 初夏のサンゴ揺れゐる妖艶に   代々木上原 春雨や天に消へゆくミナレツト ビル風や風筋沿ひに散る桜 春の土手ゼンマイ平凡繁栄す 春の野や天より雅歌の降り来る 世代とは受苦の歴史や春の風 断崖を桜おちゆく気楽さよ 春の日や総じて笑みの羅漢たち 春眠や長き眠りのリハーサル 清明や歩幅広げて歩みゆく 春風やさざ波たてて逆さ富士 春の空富士をうかべて「いい感じ」   今度は檜だ 気楽にも花粉飛びこむわが眼 近づけば小綬鶏飛び立つ桜かな 定住や流浪の時空とぶ桜 正面に真白き富士や春の風 春の鷹富士の高みを荘厳す 豊かなる春のひかりを浴びるのみ さへづりの耳底にひびく朝寝かな 久方の春の日ゆつたりあびるかな 春天へ心の道の伸びゆける 芽吹く木々明るき日浴び輝けり 無人駅春日のなかにおりたちぬ 生命の大地を踏んで春の人 春山路春の空気が転がり来 躍動や春の小川のその光   養鱒場 幾千の鱒稚魚ピチピチ春の池 夕闇やわが家を囲む桜花 答え無き世界生きるや星月夜 霊魂ののぼりて月となりにけり ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆  隔月刊ということで、二か月ぶりの刊行です。体調をふくめいろいろな意味で調子はまだまだとしか 言いようがないですが、少しずつ精進を積み重ねるより他はない。  劣化の時代である。AIをはじめ新技術はどんどん進んでいるようにみえるが、人間自体の劣化は、政 治などの劣化を含め歯止めがきかない。新技術にしてもはたして、人間の真の幸福に役立つのかと思わ ざるを得ない。  自分を棚上げして言うと、俳句の世界も、劣化の時代なのだろうか。  いずれにしても、無数の有名無名の俳人があらわれ、無限に近い句がつくられ、やがて大きな闇にの みこまれていく。  『俳諧問答』に芭蕉が凡兆に言ったという次の言葉あり。「一世のうち秀逸の句三、五あらん人は作 者なり。十句に及ばん人は名人なり。」  そういった余計なことにはとらわれず、とにかく「この今」を生きてそれぞれ自分なりに作句してい くことだ。  フランスのモンテーニュは隠居中のつれづれ(というには、あまりにも宗教的戦乱に満ちた時代であっ たが)、読書の忘備録的なところから書きはじめ、やがて大部になる「エセー」を出版したが、その中 に次の言葉を残している。  「たとえだれひとり私を読んでくれるものがいなくても、暇な時間をたっぷり使って、これほど有益 で、これほど愉しい思索を続けたことが時間を無駄にしたことになるのだろうか。」                        (モンテーニュ『エセー』IIー18)    目次へ **** 二月号 (2018年) **** (2018.2.8. 発行) ******   白糸の滝 千本の糸に彩なす虹の弓 敗戦日そのとき一歳半のわれ   カルメン幻想 血の薔薇が富士蒼天を荘厳す 捨て猫についてゆくのは烏の子 森の奥阿頼耶識燃ゆ秋の暮 五大なる闇より浮かぶ望の月 栗剥きて指も剥いたる仔細かな 枝豆は宇宙空間旅行中 樹海抜け樹海見下ろす霞かな 薄野のけもの道なりわれ進む 後悔の無い生皆無星月夜 吐いて吸ひ呼吸しづかに今朝の秋 それぞれはそれぞれ正し秋の暮 身の内を銀河通過す生きてゐる ほどほどに生きていつしか秋の暮 日を食らひ熟れゆく干し柿童子かな 迷い子のまま歳取れり秋の暮 その答すでに納得除夜の鐘 悟りとは悟れぬ自覚秋の暮 神死せりニーチエも死せり大銀河 その角をまがれば光満つ枯野 てふてふを追ふて渡るや雪の原 夢の世を夢へと戻る蒲団かな 寒林に透けて花火や遠記憶 冬晴や三日の留守の雨戸閉づ 風に雪飛ばされ黒き富士の嶺 幽明や大地より湧く冬の靄 立冬の輝く海や峠こゆ 去年今年罪作りな人罪作る 長き夜や宇宙へわが脳たたせんと シヤツター街曲がり真冬の冥途道 ラプソデイーインブルーの街落葉舞ふ 冬日浴ぶ斜面広大巨大墓地 騎士団長雪の峠に凍結す わが体わが宇宙なり冬銀河 予想より多き家ある枯木道 犬はなす枯野の果てのそのはてへ 寒月の蕊降るごとき光かな 人日や機械のごとくたちあがる 初日さす森は神殿木漏れ日の 冬薔薇真青な海に白い舟 栗鼠狙う冬の猫なり森の黙 冬の日や定住の森漂泊す 枯れ枝を飛び立つ小鳥万華鏡 滝落下うたるる岩は浮揚する 長き夜の飛行機音は耳に消ゆ 初日あび総身かがやく枯木かな 響きたる雪解の水や鱒育つ わが胸のか黒き湖を泳ぐ白鳥 好き好きの蓼の花なり滅びるか どんど火に奇あり怪あり富士の空 落葉踏み軽きリズムのなかをゆく アフリカの大陸形の春の雲 天と人敬愛すべし福寿草              この腰が痛く候ふ四方拝 冬の庭亡き人すわる白き椅子 走馬燈俳人つぎつぎ回るかな 激浪や湾の向こうの雪の富士 真直ぐな道の終りの春旋風 目の前の冬芽の尖り目に迫る   近所の田貫湖 懐に六つの湖や雪の富士 脱走や暗黒宇宙月あかり 銀河より大き流れに流されて 永遠の眠り待ちゐる星月夜 人生やみんな齢とる秋の暮 息を吐きマインドフルネス除夜の鐘 コーヒー店師走の闇の中を浮く 雲裂けてアルプス思ゆ雪の富士 厳寒の坂の上にて光る海 雪の日や諸鳥来訪あたたかし ロボツトや地球ににたる星の冬 山茶花か椿か眼前首の落つ 凍て滝へすべらぬやうに歩をすすむ つらら落つ頭頂撫でれば髑髏かな 枯野にて炎あがるをまつてゐる 枯蓮の水にうつれる富士の空 この森を眠りにいざなふ牡丹雪 雪の夜のマツチに踊る世界かな 白き雪白き山河に降り積もる 枝の雪つぎつぎ雪崩れ森こだま 雪の深さ何度もはかる無聊かな やはらかき雪の肌なり目で撫でる 寒気来る雪のはなびらちらしつつ 拍手なく終る人生冬花火 頼るにはあやうき記憶雪の道 その芽こそチューリツプなり予言する 山道の道の初めは狂い花 機首あげて富士の初日へ突入す 木に座り天使見てゐる雪の原 雪として白き地球におりたちぬ なんとなくすすむ手酌や春近し 森の奥春の女神の歌ふこゑ 雪はつか残れる庭の春日かな 寒月や枯木の影を踏めば鳴る 信じないものら行きかう冬の街   青年時代、京都 おけら火の懐に燃ゆ老年期 鮟鱇の胃の腑なかなかかみきれず        こころざし 熱燗や適度に熱き志 雪つもり太古の山河となりにけり 太古より言の葉雪とふりつもる 母の涙雪降るときは思ひ出す ふる雪や暗き宇宙へ雪がふる 細雪降るしづけさの中にゐる 絶滅は寒月光を浴びてから 大枯野地下ゆく水のこだまかな 冗舌の雪がしづかに降つてゐる 死によりて閉ざす眼や初山河 初富士の空荘厳の鷹一羽 新年と思はぬ小鳥へ初餌かな 初夢のブラツクホールに入るとこ お正月オストアンデルほお張れり 寒の水ヒネルトジヤーのいさぎよさ ジヨーカーの含み笑いの三日かな 枯芝に杭を打ちゐて春用意 骨壺のことり音立つ春隣り 豆撒くをついつい忘れ老夫婦 青空にみたされている春の脳 この森の奥は王国小鳥くる 本当かどうかは不明春を待つ モグラ穴連なる春の丘のぼる 春日浴び古いピアノが歌ひ出す 春空へわれの流離のはじまるか 飛びさうな春の鶏なり屋根へ飛ぶ   さへずり 鳴き声をきけば春なり四十雀 上流へ横一列の春の鴨  ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆  去年の八月号の休刊、いま<第二期>の刊行です。  今回は季が入り交じっていますが、自由な時間、自由につくったせいと思ってください。  総復習として、今まで学んだ俳人の句をよみなおしたりしました。芭蕉のどうしようもない大きさを あらためて感じた時期でもありました。  今回あらためて、すでに<第一期>でも引用していますが、気をひきしめるため、次の現代の二俳人 からあらためて引用しておきます。それだけがすべてではありませんが、ぼくの基本姿勢の一部として います。   飯島晴子  「こうして三十年間の句業の跡である作品を調べてみると、作法を決めたくないのが私の作法で   あるという観を呈している。しかしどの句も、その時の私自身に対してせい一杯忠実につくってき   たつもりである。そのうちに、俳句は事前に予定すると成功し難いという厄介なこともわかってき   た。    作法は選ばず、結局私がこだわるのは言葉だけである。俳句という特殊な詩形にのせて、言葉を   詩の言葉としていかに機能よくはたらかせるかという興味である。    俳句の場で、言葉、言葉というと、こころを軽視しているととられる。だが作品をなすにはまず   何らかの意味でのこころが在り、最後に又何らかのこころが出ていなければならないのは当然であ   る。」          (『飯島晴子読本』富士見書房)     田中裕明  「俳句は詩です。詩は言葉でつくります」  「詩はむりなくわかることが大切だと思います」  「俳句という詩は、ほんのささやかな営みですが、セオリーを身につけて、そしてセオリーを忘れる   ことが大切です」(『田中裕明全集』の栞にある宇多喜代子さんのメモから)    目次へ   **** 奥付 ***********

   佐々木敏光・俳句個人誌『富士山麓(第二期)』(隔月刊)  創刊  2012.8.31.  第二期再開 2018.2.  発行所 富士山麓舎 (富士宮市内野 1838-3 佐々木方)  新規メール(20.12.)  御意見よろしく。tsasaki0917(アットマーク)yahoo.co.jp  *********************  ご感想、ご意見ありましたら、上記メールによろしくお願いいたします。  *********************                             目次へ