(2014.8.19. 開設)
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「百物語」といいながら単なる怪談というより俳句世界の奥行きの広さ、深さを意識して選択してい
る。俳人、句の選択とも色々ありうる。いわゆる「俳句百物語」佐々木敏光版第一版である。ヴァリエー
ションが無限に可能な世界である。
「それぞれの句に註をつける。<更新中>」
「この項目の経過説明」
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稲妻や顔のところが薄の穂 松尾芭蕉
骸骨のうへを粧(よそ)ひて花見かな 上島鬼貫
化さうな傘かす寺の時雨かな 与謝蕪村
寒月や喰つきさうな鬼瓦 小林一茶
荒海に人魚浮けり寒の月 松岡青蘿 (せいら)
活きた目をつつきに来るか蝿の声 正岡子規
わが終り銀河の中に身を投げん 高濱虚子
赤い椿白い椿と落ちにけり 河東碧梧桐
秋風や屠(ほふ)られに行く牛の尻 夏目漱石
世の中は箱に入れたり傀儡(くわいらい)師 芥川龍之介
生きかはり死にかはりして打つ田かな 村上鬼城
たましひのしづかにうつる菊見かな 飯田蛇笏
うらがへし又うらがへし大蛾掃く 前田普羅
目覚(さ)まさば父怖しき午睡かな 原石鼎
一筋の秋風なりし蚊遣香 渡辺水巴
蟻地獄松風を聞くばかりなり 高野素十
行く春や娘首(がしら)の髪の艶 水原秋桜子
狐火を詠む卒翁でございかな 阿波野青畝
一湾をたあんと開く猟銃音 山口誓子
真直ぐ往けと白痴が指しぬ秋の道 中村草田男
死ににゆく猫に真青の薄原 加藤楸邨
朴散華即ちしれぬ行方かな 川端茅舎
夢に舞ふ能美しや冬籠 松本たかし
南風や化粧に洩れし耳の下 日野草城
雪はしづかにゆたかにはやし屍室 石田波郷
病めば梅ぼしのあかさ 種田山頭火
壁の新聞の女はいつも泣いて居る 尾崎放哉
鮟鱇もわが身の業も煮ゆるかな 久保田万太郎
みちのくの雪深ければ雪女郎 山口青邨
戦争が廊下の奥に立つてゐた 渡邊白泉
大野火の中より誰か燃えきたる 阿部青鞋
一枚の落葉となりて昏睡す 野見山朱鳥
寒い月 ああ貌がない 貌がない 富澤赤黄男
何物が蛾を装ひて入り来るや 相生垣瓜人
この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉 三橋鷹女
雪月花美神の罪は深かりき 高屋窓秋
ネロの業火石焼芋の竃に燃ゆ 西東三鬼
この雪嶺わが命終に顕ちて来よ 橋本多佳子
死神が死んで居るなり百日紅(さるすべり) 永田耕衣
銀河系のとある酒場のヒヤシンス 橋關ホ(かんせき)
ねたきりのわがつかみたし銀河の尾 秋元不死男
狂ひても母乳は白し蜂光る 平畑静塔
黒きもの暗に飛び行く焚火かな 高濱年尾
わが修羅へ若き歌人が酔うてくる 金子兜太
月下の宿帳
先客の名はリラダン伯爵 高柳重信
大雷雨鬱王と会うあさの夢 赤尾兜子
天上も淋しからんに燕子花 鈴木六林男
貌が棲む芒の中の捨て鏡 中村苑子
死なうかと囁かれしは蛍の夜 鈴木真砂女
怒らぬから青野でしめる友の首 島津亮
暗がりに檸檬泛かぶは死後の景 三谷昭
みちのくは底知れぬ国大熊(おやぢ)生く 佐藤鬼房
千里より一里が遠し春の闇 飯田龍太
満月の裏はくらやみ魂祭 三橋敏雄
身のうちへ落花つもりてゆくばかり 野澤節子
死ぬ朝は野にあかがねの鐘鳴らむ 藤田湘子
気がつけば冥土に水を打つてゐし 飯島晴子
まくなぎとなりて山河を浮上せる 斎藤玄
ある闇は蟲の形をして哭けり 河原枇杷男
蚊遣香父のをんなもみんな果て 上田五千石
新宿ははるかなる墓碑鳥渡る 福永耕二
戦争がはじまる野菊たちの前 矢島渚男
花の闇お四国の闇我の闇 黒田杏子
心中を見にゆく髪に椿挿し 寺山修司
北風吹くや一つ目小僧蹤(つ)いてくる 角川春樹
死者あまた卯波より現れ上陸す 眞鍋呉夫
虫の夜の星空に浮く地球かな 大峯あきら
眼球も地球も濡(ぬ)れて花の暮 和田悟朗
満開の森の陰部の鰓呼吸 八木三日女
麺麭屋まで二百歩 銀河へは七歩 折笠美秋
狂ふまでは螢袋の中にゐた 齋藤慎爾
八月の赤子はいまも宙を蹴る 宇多喜代子
お尻から腐つて来たる瓜の馬 茨木和生
渋滞を抜けて加速の霊柩車 森田智子
殺めては拭きとる京の秋の暮 攝津幸彦
縁側にころがる柿と曾祖母と 坪内稔典
すべてをなめる波の巨大な舌に愛なし 夏石番矢
穴子の眼澄めるに錐を打ちにけり 小澤實
花吹雪観る土中の父も身を起こし 西川徹郎
一本のすでにはげしき花吹雪 片山由美子
雪暮れや憎くてうたふ子守唄 中原道夫
まっすぐに行けば海底蝉時雨 高野ムツオ
あらそはぬ種族ほろびぬ大枯野 田中裕明
大神を仕留めて狂ひ絶えし家 三村純也
目覚めるといつも私が居て遺憾 池田澄子
水の地球すこしはなれて春の月 正木ゆう子
春満月水子も夢を見る頃ぞ 保坂敏子
波波波波波あ首波波 江里昭彦
火事かしらあそこも地獄なのかしら 櫂未知子
男を死を迎ふる仰臥青葉冷 山下知津子
坂道の上はかげろふみんな居る 奥坂まや
冬の蠅見れば絶叫してゐたる 小川軽舟
悪い知らせが届く今日は覚(さとり)の日 倉阪鬼一郎
冬空に首浮きゐるを秘密とす 関悦史
先生の背後にきのこぐも綺麗 谷雄介
紫陽花や身を持ちくづす庵の主 永井荷風
わが幻想の都市は空にあり
虹立つや人馬にぎはふ空の上 荻原朔太郎
わが恋は人とる沼の花菖蒲(あやめ) 泉鏡花
櫻の樹の下には屍体が埋まつてゐる 梶井基次郎 (「山本健吉百句選」より、俳句的一行)
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「それぞれの句に註をつける。<更新中>」
先に「「百物語」といいながら単なる怪談というより俳句世界の奥行きの広さ、深さを意識して選択
している。」と書いたが、ある友人がそれに呼応するように、「この百選に解説をくわえて、俳句の世
界の広がりと深さをえがく本を書いてみたらどうですか。」とメールをくれた。この出版不況の時代を
かんがえると出版は絶望的だが、それとは関係なくここでは、少しずつごく簡単な注のようなものをつ
け加えることをやっていきたいとは思っている。
☆ ☆ ☆
そもそも「百物語」とは、怪談会の一つの形式で、夜、数人が集まって順番に怪談を順番に怪談を語
り合う遊び。ろうそくを100本立てておいて、1話終るごとに1本ずつ消していき、100番目が終
わって真っ暗になったとき、化け物が現れるとされたものである。
今回、よくあることだが、余白を残して100番目はあえて取り上げない。99句である。100句
目は、各自、心して用意されるといい。
(( いくつかの例:掲載は本文の順番であるが、書いた時期は前後している。))
稲妻や顔のところが薄の穂 松尾芭蕉
単なる怪談を集めるのではないとすでに書いているが、次元がことなるとはいえ、ある種の「こわ
さ(こはさ)」を含む芭蕉の候補句としては
猿を聞く人捨子に秋の風いかに
夏草や兵どもが夢の跡
むざんやな甲の下のきりぎりす
などの句も考えた。
猿を聞く人捨子に秋の風いかに
は、「野ざらし紀行」の中の句であるが、駿河の富士川のほとりで捨て子を見て、「猿を聞く人捨て子
に秋の風いかに」と詠んで「猿のなき声」をきいた杜甫の心境に迫ろうとした。ある意味では捨て子に
非情に対する態度も独特な響きをもってせまってくるが、同時にどうしようもない人間の根源的、宇宙
的な寂しさの響きをも含んでいる。
夏草や兵どもが夢の跡
は、奥の細道、平泉でよんだ説明を要しない名句だが、「兵(つはもの)どもが夢」がむなしく夏野を
さまようさまは、「耳なし芳一」ではないが、考えようによってはすさまじい光景である。
むざんやな甲の下のきりぎりす
甲(かぶと)は平家側の武将斎藤実盛の着用した甲。実盛は木曽義仲との戦いで討たれるが、かつて
助けられたことのある敵方の実盛のため義仲は実盛の甲を神社におさめ、魂をしずめる。きりぎすは今
のこおろぎである。かぼそく、さびしく鳴いている。奥の細道、北陸での名作の一つである。
さて、
稲妻や顔のところが薄の穂
であるが、
「闇を裂いて稲妻がピカッと閃くと、次の瞬間には今まで美しく踊っていると見えた人間が骸骨と化
し、顔のところが小野小町の髑髏のように薄の穂になっている。」と『新潮日本古典集成・芭蕉句集』
ではうまく説明している。
芭蕉は、元禄7年夏、膳所の義仲寺在住中、大津の能大夫本間主馬の宅に招かれて、能舞台の壁に張っ
てあった骸骨の能を演じている画に画賛を入れた。画賛中の句である。謡曲『通小町』の中の一首「秋
風の吹くにつけてもあなめあなめ小野とは言はじ薄生ひたり」が句では使われている。あなめあなめは、
かなしいことにという意味であるが、穴目、穴目とも誤読できるので、顔はすでに骸骨でその目の穴か
ら薄が生え出ているという風にも解釈できる光景である。
また『荘子』には荘子が髑髏を枕にして寝たところ、「人間というもの生前は苦労が多いが死後には
永遠の安らぎが来る」と髑髏が語った、という夢を見たという話もあり、画賛にもその部分を援用して
いるが、芭蕉晩年の莊子的な生死観、死後の世界こそ無為自然にして永遠至楽の境地だといった世界を
あらわしているともいえる。
赤い椿白い椿と落ちにけり 河東碧梧桐
単純に絵のように美しい句である。「百物語」にいれるべきではない句かもしれない。
あえて選んだのは、俳句という短詩型の自由な読み方を可能にする力を思ってのことである。椿は「ボ
トッ」と花ごと落ちる、斬られた首が落ちるように落ちる。男女の断首の美しい光景とはうがち過ぎだ
ろうか。首といわなくても赤い、白い肢体が落下する男女の心中の美しさをおもってもよい。
秋風や屠(ほふ)られに行く牛の尻 夏目漱石
晩年、病を得たなかでの自己を屠殺場に送られる牛に見立てた漱石のユーモアに満ちた自虐的な俳句
である。
たましひのしづかにうつる菊見かな 飯田蛇笏
雪月花と日本人の情緒を代表する桜。俳句でも散りゆく花である桜が「死」「死体」と結びつく例が
多い。「菊」もまた、「死」「霊」としずかに結びついてゆく。花々にはそれぞれ花々の霊があり、あ
やしく薄光をはなっている。
目覚(さ)まさば父怖しき午睡かな 原石鼎
原石鼎の句境を知った上で選んだ面もある。医者の父に、医者になることを期待されながら、文学に
はしり、浪漫的な夢想の生活の中で、しかたなく受けた医専にはなかなか受からず、受かった医専をも
中退し、放浪に近い生活の中で、俳句に開眼した。
山頭火「まっすぐな道で さみしい」は、山頭火がよんでこその感動で、普通の俳人がよんでも
「あ、そう」といった具合で特別な感動はもたらさない。「境涯」が句に何かを加える、ある意味では
特殊な文芸といえるが、実は詩にもそう言った面があり、別に俳句だけでなく、またすべての俳句がそ
ういう「境涯」を必要とするわけでもない。
フランス詩も、ランボーの「もう秋か。 それにしても,何故に,永遠の太陽を惜しむのか。俺たちは
きよらかな光の発見に心ざす身ではないのか。季節の上に死滅する人々からは遠く離れて」も、ランボー
の生涯をしってこそ、よりうったえかけるものになり、またボードレールの詩も彼の生涯がはりつてい
る。もちろん「境涯」へのとらわれすぎへ反発しての詩作もありうるのである。
原石鼎も
頂上やことに野菊の吹かれをり や
秋風や模様の違う皿ふたつ
など、境涯を離れて、自立する句もたくさんある。一方また、芭蕉も、奥の細道という「境遇」の中
でかがやく句もたくさんある。
戦争が廊下の奥に立つてゐた 渡邊白泉
これは、無季の有名な句で、戦前、いつのまにか戦争が始まっていた驚きを読んだものだ。日常生活
のただなかにある廊下の奥の暗闇に唐突に「戦争」が「たつている」のである。
銃後といふ不思議な町を丘で見た 渡辺白泉
もあるが、彼は戦前には執筆禁止命令をうけます。
死者あまた卯波より現れ上陸す 眞鍋呉夫
卯波(うなみ)、卯浪は夏の季語で、「陰暦四月、卯の花が咲く頃に海上に立つ波のこと」である。
悲惨な海戦や特攻機での戦闘で死者になった兵たちが海の中から次々現れ出るイメージである。
波波波波波あ首波波 江里昭彦
言葉あそびで、波(なみ)波波の中に、「あ、首」と急に首が見えてくる。
切られた首のイメージだが、実際は泳いでる人かもしれない。
よく似た句に
皿皿皿皿皿血皿皿皿皿 関悦史
がある。真白な皿が並んでいて、ふと血がついているのに気づくといったわけである。
俳句の読みは、これしかないというのはないので、一種の遊びとして自由に読んでいいと思う。
「遊びをせんとやうまれけむ」 真面目さは、おのずから滲みでてくる。
(2014.9.10. 更新9.16)
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「この項目の経過説明」
一般の人が、俳句を一つの世界だと思うのはしかたない。確かに、五、七、五からでた「短さ」とい
う共通点はあり、山頭火などの自由律俳句を含め、「短さ」はだれもが知るところである。
だが、少しでもその世界にはいると、あらためて千差万別の多様な世界であることがわかる。有季定
型をめぐってだけでも、ガリバーの小人国の世界のように、卵を細い方を割るか太い方を割るかで争い
がおこりかねない、まさに蝸牛角上の世界である。
ぼくは句集の他は、商業用俳句雑誌やごく一部の結社誌、またネットで俳句の現状をしることになる。
その中に、あたかも「百物語」の世界をめざしているかのような俳句だと分類したくなる俳句群と良
く出会う。奇をてらい人をおどろかそうという思いが丸見えの句をつくり続ける若者などが、それらを
仲間内で、褒め合う光景も目撃する。
もちろん芭蕉だって、「稲妻や顔のところが薄の穂」など百物語に通じる怪奇的な句があり、「驚異」
は詩の一大源泉である。
もっぱら百物語の世界をつくろうとはおもっているわけではないが、結果的に百物語へも通底する句
をつくる俳人は多い。徒然なるままに、そういった俳人たちの句を一人一句合計九十九句(百物語の特
徴上、百句目は余地を残して)選んで、「俳句百物語」としてみたいと思う。一応俳句世界の多様性も
意識している。
「俳句百物語」、俳人の選び方、俳人一人についても、見方を変えると選択句はくるくる変わってし
まい、際限ない。また選択のヴァリエーションは無限である。とりあえず、今の段階では不完全で不十
分であることを承知で、敏光版第一版としておく。 (2014.9.10. )
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